第2104回 欧州カップグループリーグ終盤戦 (1)
トットナム・ホットスパーとモナコで活躍したグレン・ホドル

 平成28年熊本地震で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。お亡くなりになった方々に、謹んで哀悼の意を表します。 この地震が1日でも早く収まることと、被災地の皆様の安全とご健康をお祈り申し上げます。

■あと一歩のモナコ、望みのあるリヨン

 本連載の第2086回から第2091回にかけて、チャンピオンズリーグのグループリーグの中盤戦について紹介してきたが、今回からは11月下旬と12月上旬に行われた第5節と第6節の模様を紹介しよう。
 第4節まで終えた時点のフランス勢の状況について確認しておこう。グループAのパリサンジェルマンはアーセナル(イングランド)とともに決勝トーナメント進出を決定している。グループEのモナコは勝ち点8でトップであるが、決勝トーナメント進出確定まであと一歩である。グループHのリヨンは勝ち点4で3位、まだ望みはある。
 11月22日にモナコとリヨンの試合が行われた。モナコの所属するグループEの2位はレバークーゼン(ドイツ)で勝ち点6、3位はトットナム・ホットスパー(イングランド)で勝ち点4である。第5節でモナコは3位のトットナム・ホットスパーとホームで対戦し、モナコは引き分け以上だと決勝トーナメント進出が決まる。

■トットナム・ホットスパーからモナコに移籍したグレン・ホドル

 モナコとトットナム・ホットスパーの顔合わせで忘れてはならない選手がいる。グレン・ホドルである。日本がワールドカップに初出場した際にイングランド代表を率いていたのがホドルであるが、ホドルはトットナム・ホットスパーで選手生活をはじめ、1987年まで実に12シーズントットナム・ホットスパーに所属した。1980年代にはワールドカップにも出場し、選手としてベテランの域に達していたホドルはモナコに移籍する。

■欧州の舞台での活躍を求めてフランスに移籍

 当時は外国人枠が3人と限られていたため、外国人選手の移籍は少なかったが、ホドルの移籍には背景がある。それは、ヘイゼルの悲劇によってイングランドのクラブがUEFAの主催する当時の欧州三大カップから締め出されてしまったため、欧州の舞台での活躍を求めたホドルが国外移籍を望んだのである。ホドルはトットナム・ホットスパー在籍時には欧州三大カップに4回出場したことがある。しかし、そのうち2回はカップウィナーズカップ、残る2回はUEFAカップである。1983-84シーズンのUEFAカップでトットナムは決勝に進出し、ベルギーのアンデルレヒトと対戦し、ホーム、アウエーとも1-1のドローでPK戦の末、トットナム・ホットスパーが優勝するが、ホドルは2試合ともメンバーに入っていなかった。また、チャンピオンズリーグの前身であるチャンピオンズカップにはリーグ優勝チームしか出場できず、リバプールなどロンドン以外のクラブの天下だった時代にロンドンのチームがチャンピオンズリーグに出場することはかなわなかった。このホドルの移籍願望に対し、当時のモナコのアルセーヌ・ベンゲル監督が声をかけたのである。

■移籍初年にモナコはリーグ優勝、2年目にはチャンピオンズカップで準々決勝進出

 ホドルはモナコに移籍した初年にはほぼ全試合に出場し、モナコをリーグ優勝に導く。ホドルはフランスリーグの最優秀外国人選手に選ばれる。フランスでは翌年からマルセイユのリーグ5連覇が始まるが、そのマルセイユの黄金時代前夜最後の優勝はホドルのモナコであった。リーグ優勝してチャンピオンズカップ出場という夢を果たしたホドルは、このチャンピオンズカップでも活躍し、1回戦でアイスランドのレイキャビクを倒し、2回戦はベルギーのクラブ・ブルージュを下し、準々決勝でトルコのガラタサライに敗れるまでの快進撃を支えたのである。モナコにとってはいわば恩人ともいえるホドルを獲得したベンゲルが今やノースロンドンダービーの好敵手であるアーセナルの指揮官であるということは興味深い。
 指導者としてのキャリアであるが、ホドルは1996年の欧州選手権の後にイングランド代表監督に就任し、1998年のワールドカップで指揮を執った。2001年には出身のトットナム・ホットスパーの監督に就任し、地元からは大きな期待がかかる。初年度は11位、当時のトットナム・ホットスパーの実力からいえば妥当な結果であったが、ファンの期待はそれ以上であり、2年目のシーズン序盤にリーグ中位の段階で監督を辞任している。現在はテレビ解説者を務めているが、この一戦を特別な思いで観戦しているであろう。

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