第2141回 追悼、レイモン・コパ(1)
創成期のチャンピオンズカップの主役

 6年前の東日本大震災、昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■3月3日に85歳で亡くなったレイモン・コパ

 フランスの誇るフットボーラ―、レイモン・コパが3月3日に85歳の生涯を閉じた。謹んで哀悼の意を示したい。
 本連載の読者の皆様であればよくご存じのとおり、1950年代から1960年代にかけて活躍したフランスサッカーの至宝である。

■レキップ紙のガブリエル・アノーの提唱で始まったチャンピオンズカップ

 ちょうど本連載ではチャンピオンズリーグ、ヨーロッパリーグの決勝トーナメントについて紹介してきたところであるが、創成期のチャンピオンズカップを語るうえで忘れてはならない人物である。チャンピオンズリーグの前身であるチャンピオンズカップはフランスのレキップ紙に勤務していたガブリエル・アノーの提唱によって1955年に創設した。各国のチャンピオンチームを集めて欧州のクラブナンバーワンを決めようという試みであり、各国に呼びかけて出場したチームは16か国の16チームであった。
 当時はまだリーグ戦が現在のような形式になっていなかった西ドイツも代表を送り込んできたが、イングランドは国内リーグとの日程の重複を理由にチームを送らず、また国内チャンピオンではないチームを出場させた国が過半数を占めた。チャンピオンチームを送ってきたのはフランス(スタッド・ド・ランス)、スペイン(レアル・マドリッド)、ベルギー(アンデルレヒト)、デンマーク(オーフス)、スウェーデン(ユールゴーデン)、西ドイツ(ロートバイス・エッセン)の6か国だけであった。

■第1回の決勝はレアル・マドリッドがスタッド・ド・ランスを下す

 ホームアンドアウエー方式のノックアウト方式で行われ、決勝に勝ち残ったのはフランスとスペインのチャンピオンチームであった。決勝は現在同様1試合のみ行われ、会場はパリのパルク・デ・プランス、イングランドのアーサー・エリス氏のホイッスルで試合が行われた。本連載でも何回も紹介している通り、この試合は立ち上がりにスタッド・ド・ランスが2点先行したが、レアル・マドリッドが追い付く。スタッド・ド・ランスはのちにフランス代表監督として欧州選手権優勝に導くミッシェル・イダルゴが62分に勝ち越し点を奪うが、レアル・マドリッドが逆転する。4-3というスコアで記念すべき第1回大会の優勝カップは白い巨人の手に渡ったのである。

■レアル・マドリッドの在籍3年間すべてでチャンピオンズカップに優勝

 当時は外国人選手は珍しく、フランス代表監督を兼ねていたアルベール・バトー監督率いるスタッド・ド・ランスは全員がフランス人選手であり、レアル・マドリッドもアルフレッド・ディステファノとエクトール・リアルという2人のアルゼンチン人選手以外は全員スペイン人選手であった。
 大会では無得点であったが、コパの活躍は欧州中に衝撃を与えた。現在とは違い、情報網も発達しておらず、チャンピオンズカップをはじめとする欧州三大カップ、そして代表の試合を現地で観戦するしか情報のない時代であった。スタッド・ド・ランス、フランス代表でのコパの活躍に欧州ナンバーワンを決める戦いが始まった欧州の名門クラブが獲得に名乗りをあげた。イタリアのACミラノも名乗りをあげたが、結局、アルゼンチン人のディステファノがスペイン国籍を取得したこともあり、コパはレアル・マドリッドの一員になったのである。
 レアル・マドリッドでのコパの経歴はさらに輝くものとなった。移籍初年度の1956-57のチャンピオンズカップでレアル・マドリッドは準々決勝でニースに連勝、準決勝ではイングランドから初出場となったマンチェスター・ユナイテッドを下し、決勝ではイタリアのフィオレンチナに2-0で勝利して連覇を果たす。
 さらにレアル・マドリッドは翌季の1957-58シーズン、1958-59シーズンもチャンピオンズカップで優勝し、4連覇を果たす。
 コパは1959年に古巣のスタッド・ド・ランスに復帰することになるが、レアル・マドリッドに所属した3年間すべてでチャンピオンズカップ優勝を果たし、まさにチャンピオンズカップの申し子と言えるであろう。(続く)

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