第2143回 追悼、レイモン・コパ (3)
1958年ワールドカップ3位の原動力

 6年前の東日本大震災、昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■1958年ワールドカップで3位になったフランス

 前々回と前回の本連載では3月3日に85歳の生涯を閉じたレイモン・コパのチャンピオンズカップ、スタッド・ド・ランスでの活躍について紹介したが、このシリーズの最後はフランス代表での活躍を紹介しよう。
 フランスの代表チームが初めて国際大会で上位に進出したのが1958年のスウェーデンでのワールドカップである。世界の人々にとってこの大会はブラジルのペレのデビューした大会として記憶され、ペレを擁するブラジルにフランスは準決勝で2-5と粉砕されたが、3位決定戦では西ドイツを破った。このチームの得点源はいまだに破られぬ1大会13得点をあげたジュスト・フォンテーヌであったが中心はアシスト王のコパであった。

■スタッド・ド・ランスのメンバーとともに代表チームで活躍

 コパにとって最初の国際大会は1954年のワールドカップであった。スタッド・ド・ランスからはコパを含む6人が選出された。この大会は4チームずつに分かれて行われたグループリーグが総当たりではなく、各グループに2つ割り当てられたシード国同士の対戦はなく、フランスはブラジルとは試合を行わず、ユーゴスラビアとメキシコを対戦した。世界デビューとなったコパはユーゴスラビア戦では精彩を欠き、チームも0-1と敗れてしまい、メキシコ戦では終了間際にコパは決勝点となるPKを決めたものの、グループリーグでフランスは敗退する。
 1958年のスウェーデン大会はコパ、そしてフランスにとって長く語り継がれるものとなった。この時代は代表チームと言っても特定のチームを中心にチームが結成され、その中心がスタッド・ド・ランスであった。監督もスタッド・ド・ランスのアルベール・バトーが1955年から務めていた。しかし、コパはスペインのレアル・マドリッドに所属していたため出場しなかったが、本大会では6人のスタッド・ド・ランスの友人たちに再会し、スウェーデンで躍動した。スウェーデンではパラグアイに大勝、ユーゴスラビアには敗れたがスコットランドに勝利して決勝トーナメントに進出、北アイルランドを下して準決勝で敗れることになるが、コパはチームの得点をお膳立てする役割になり、敗れたブラジル戦も2得点ともコパがアシストを決め、ジュスト・フォンテーヌの得点王獲得に貢献した。

■70歳までアマチュアとしてプレー

 スウェーデンのワールドカップ後は主将を務め、1960年の欧州選手権の予選は出場し、4チームで行われた本大会出場には貢献したものの、地元開催となった本大会にはひざの負傷のため出場できなかった。また、1962年のワールドカップ・チリ大会の予選はメンバーから外れ、チームも大失速、バトー監督は更迭され、後任のアンリ・ゲラン監督の予選初戦となったイングランド戦に出場しただけにとどまった。
 全盛期に比べ、晩年は代表チームでも所属クラブでもさびしい成績となったが、コパの素晴らしいところは引退後も70歳までアマチュア登録してプレーを続けたことである。コパは晩年はアンジェで過ごした。初めてプロ契約をし、同じクラブのバスケットボールの選手だったクリスティーヌさんと結婚した町でコパは生涯の最後の日々を過ごした。

■フランスの生んだ三大フットボーラー

 ナポレオンというニックネームのあったコパは1984年欧州選手権優勝のミッシェル・プラティニ、1998の年ワールドカップと2000年欧州選手権優勝のジネディーヌ・ジダンと並んでフランスの生んだ三大フットボーラーであることは間違いない。
 コパの本当の名字はコパゼウスキーである。第一次世界大戦で荒廃したフランスの産業の復興の中心が炭鉱業であり、ベルギー国境に近い炭鉱町にコパの祖父がポーランドから家族を連れてやってきた。ポーランド人の父を持つコパは21歳になり、フランス国籍を取得した。プラティニもジダンも同様に家族がフランスに移住してきた歴史を持つ。移民排斥の声が叫ばれている今日この頃であるが、フランスのサッカーにおいてこの3人が成し遂げ、フランス社会に与えた影響を今一度考え直してみる必要があるのではないだろうか。(この項、終わり)

このページの先頭へ戻る

月間バックナンバー

  • RSS Feed
  • Supported by Everplus