第1079回 ヨーロッパリーグ2回戦(3) マルセイユ、終了直前に得点をあげ第1戦はドロー

■20年前の対戦に選手として出場したディディエ・デシャン監督

 20年前のチャンピオンズリーグ準決勝でベンフィカの選手のハンドによるゴールで決勝進出を阻止されたマルセイユは闘志満々である。両チームの選手は20年前に対戦した選手はもちろんおらず、マルセイユやベンフィカの黄金時代も知らない。
 そういった中で最も闘志を燃やしているのが、マルセイユのディディエ・デシャン監督である。デシャン監督は20年前のベンフィカとの対戦に選手として第1戦も第2戦もフル出場している。ナントで育ったデシャンは1989年の暮れのシーズン中にマルセイユに移籍している。1989年夏にマルセイユはディエゴ・マラドーナ獲得に乗り出して失敗しており、もしもマルセイユがマラドーナ獲得に成功していれば、デシャンの移籍はなかったかもしれない。移籍直後からデシャンは活躍し、チャンピオンズカップというビッグタイトルをつかむかにみえたが、不運に見舞われた。デシャンは翌シーズンはライバルのボルドーにローンされ、再びマルセイユに戻ってきたときは主将を任され、1993年には宿敵ACミランを破ってミュンヘンのオリンピックスタジアムでビッグイヤーを高々と掲げたが、八百長疑惑によってタイトルを剥奪されている。つまりデシャンは2度も栄冠から見放されているのである。

■選手としても監督としても移籍初年にベンフィカと対戦

 そのデシャンは現役を引退してから、監督としての才能があることを世界中に知らしめたことは改めて紹介するまでもない。モナコで監督としてのキャリアをスタートし、イタリアのユベントスでは素晴らしい成績を収め、昨年、古巣のマルセイユの監督となった。つまり選手としても監督としてもマルセイユに移籍した初年にベンフィカと対戦することになったのである。

■20年前とは様変わりしたベンフィカの本拠地ルス競技場

 20年前とは逆に第1戦はリスボンでの対戦となった。この20年の間にフランスは1998年にワールドカップ、ポルトガルは2004年に欧州選手権が開催され、両チームの本拠地は大規模な改装が行われた。ベンフィカの本拠地ルス競技場は近代的になり、収容人数も以前の半分になった。一方、マルセイユの本拠地ベロドローム競技場は収容人数も大幅に増加した。20年前の面影は両競技場にはないが、3月11日の夜、ルス競技場には20年前の対戦を知るたくさんのファンが集まった。中には20年前は職を求めてフランスに住んでいたポルトガル人も少なくはないであろう。
 試合はマルセイユが優勢に進める。20年前のマルセイユでの第1戦も試合開始から優勢に試合を進めたのはアウエーのベンフィカであった。ところが時間の経過とともにベンフィカが次第にリズムをつかむようになる。33分にはベンフィカがビッグチャンスをつかむが、得点には至らない。両チーム無得点のまま、試合は後半に入る。20年前のリスボンでの試合を全く同じ展開である。

■終盤に先制を許すも、終了間際にハテム・ベンアルファが同点ゴール

 そしてこの試合最初にゴールネットを揺らしたのは76分、ベンフィカのウルグアイ代表マキシ・ペレイラであった。20年前の対戦ではマルセイユにエンゾ・フランチェスコリというウルグアイ代表の名手がいたが、この20年間で外国人選手のグローバル化は著しく進展した。試合はその後もベンフィカが優勢に進め、追加点のチャンスもあった。20年前のマルセイユの唯一の弱点はGKであり、元フランス代表ではあるが、このシーズンで現役を引退することになるジャン・カスタネダがゴールを守っていた。現在のマルセイユのGKは現役の代表メンバーのスティーブ・マンダンダ、スーパーセーブで追加点を許さない。
 しかしマルセイユも得点が生まれず、このままベンフィカが守り切るかと思われたが、90分、マルセイユのハテム・ベンアルファが劇的なゴールで同点に追いつく。マルセイユはリスボンでの試合の2試合目の最後、すなわち180分たったところで得点をあげた。アウエーで1-1というスコアに持ち込み、第2戦は1週間後の3月18日に地元ベロドロームに舞台を移して行われるのである。(続く)

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