第40回 フランス・フットボール創世記

■ノストラダムスの生きた時代にフットボールは存在したか?

 サッカークリックの宇都宮徹壱さんの「モノクロームの冒険」を筆者も楽しく読ませていただいている。その連載の第4回「2002年への招待状(1)~ワールドカップと『ノストラダムスの呪縛』」では、ノストラダムスの時代にもサッカーらしきものがあっただろうが、彼の著書「諸世紀」にフットボールやワールドカップについて言及した形跡がまったく見られない、というくだりがある。
 日本の読者の皆さんの多くは、中世のイングランドでサッカーの原型とも言える原始的フットボールが行われていたり、イタリアでカルチョと呼ばれる競技が行われていたりしたため、ノストラダムスの生きたフランスでも似たようなスポーツが行われていたと思われているに違いない。本連載ではフランスにおけるサッカー(フットボール)の起源についてご紹介したい。

■「太陽」を相手ゴールに運ぶ遊び「ラ・スール」

 ボールを蹴るという形の遊びは、球技の中でも最も古いとされている。目の前に石があれば蹴ってみたくなるのが人類の習性である。そしてその蹴るという行為が遊びとなりスポーツとなってきたことはヨハン・ホイジンガーやロジェ・カイヨワなどの賢人の説を待たずとも自明であろう。この球を蹴るというスポーツの起源はなんと中国、今をさかのぼること5000年、紀元前3000年頃の黄帝の時代にはフットボールらしき遊びがあったという伝説が残されている。
 一方、欧州でも中世になると先述の通りイタリアのフローレンス地方でカルチョと呼ばれるフットボールが行われ、イングランドでは12世紀後半に告解火曜日の祝いの行事としてフットボールが行われていた。また、ローマ人はカルチョ以外に様々な種類のフットボールを行っていたのである。ローマ帝国は中世の欧州大陸全体に影響を与え、このフットボールも例外ではなく、12世紀のフランスでは「ラ・スール」という乱暴な競技として流行した。
 ラ・スールはケルト語あるいはラテン語の「太陽」という単語が語源であるとされている。ボールを「太陽」に見立て、ボールを敵陣の目標に運ぶというラ・スールはフランス全土に普及した。ラ・スールという呼び名やルールは地方によってまちまちであったがケルト文化の影響を強く受けているノルマンディー地方やブルターニュ地方で特に盛んに行われていた。村と村の対抗、教区と教区の対抗だけではなく、既婚者対独身者、町の中心部の住民対周辺部の住民などの形式で行われ、次第にエスカレートし、農村では農作物を踏み荒らし、都市部では家屋に損害を与えるほか、競技者自身もけがをするなどの乱暴な戦いとなっていったのである。

■「ラ・スール」をノストラダムスは知らなかった?

 フットボールの持つ暴力性に困惑して中世のイングランドで国王が禁止令を出したことは有名であるが、フランスでもほぼ同時期の1319年にフィリップ5世、1369年にシャルル5世が禁止令を出している。イングランドでは、フットボールは度重なる禁止令にも関わらず小作農民などの階級には根強い人気を誇り、領主階級や騎士階級は狩猟などに親しんだ。
 逆に、フランスのラ・スールは、ノルマンディーなどで一部の貴族階級によって継続されたのである。ノストラダムスの時代にはフランスではフットボール(ラ・スール)をプレーする人口は少なく、またそのエリアもノストラダムスの生まれ育った南仏プロバンスからほど遠い北西部のブルターニュやノルマンディーに限られており、彼が予言をできなかったとしてもやむを得ないであろう。

■フットボールが「富国強兵」に与えた影響

 イングランドにおいて「下劣な娯楽」であったフットボールは、近世になり大きくその位置づけを変える。16世紀の後半からはイングランドの上流階級も国際交流を行うようになり、イタリアやフランスの上流階級を真似してフットボールを行うようになってきた。そしてパブリックスクールなどの学校でスポーツとして教えられることとなり、すべての階層に普及してきた。
 一方、フランスにおいては唯一スポーツを行う階層であった貴族階級が、近世になり、次第にラ・スールをはじめとするスポーツから興味を失っていった。
 フットボールが確固たる地位をイングランドで築いたのは1815年のワーテルローの戦いである。このときナポレオンを破ったウェリントン将軍はこの勝利を「イートン校のグラウンドで得られたもの」と評したのである。フットボールで鍛えられた心身がこの勝利を支えたというこの発言は他のパブリックスクールに影響を与え、フットボールの地位が急上昇したのである。また呼び名やルールが統一されないフランスのラ・スールと異なり、イギリスではフットボールの規則の統一、協会の組織化などが行われたのである。
 やがて、このパブリックスクールを卒業したエリートたちが世界中で活躍することとなり、その町々にフットボールを普及させることとなった。フットボールは英語とならぶ大英帝国の誇る「輸出品」となったのである。

■世界中の港町に伝播したフットボール

 世界中の港町にフットボールが上陸したように、フランスでも最初にフットボールが上陸したのは北の玄関、ル・アーブルであった。フランス最古のサッカークラブであるル・アーブル・アスレチッククラブの創立は1872年。フットボールの普及はイギリス人の進出と同じであり、パリには1887年にパリ・アソシエーションフットボールクラブ(1892年にスタンダード・アスレチッククラブに変更)、1891年にホワイト・ローバースが英国人の手でつくられた。最初のフランス人のチームは1892年に設立されたクラブ・フランセである。このようにイングランドに近いノルマンディー地方とパリを中心に普及し始めたイングランド生まれのフットボールはフランスでも発展を遂げたのである。
 さて、フィリップ・トルシエ率いる日本ユース代表がフランス合宿で最初に対戦したのは、他でもなくこのル・アーブル・アスレチッククラブであった(2月10日にビルパントで行われ、1-0で日本ユースリードのまま後半28分に降雪のため打ち切られた)。日本にもフランスとほぼ同時期の1873年に、イングランドからフットボールがもたらされている。日本のユースチームの最初の対戦相手に故国で最古のクラブを選んだのはトルシエの粋な計らいだと思うが、いかがだろうか?

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