第1950回 チャンピオンズリーググループリーグ終盤戦(1) ズラタン・イブラヒモビッチ、マルメに凱旋

 4年前の3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■パリサンジェルマンとレアル・マドリッドの一騎打ちとなったグループA

 今季のチャンピオンズリーグについては本連載第1925回から第1930回にかけて第1節から第4節までの戦いを紹介した。フランスから本戦に出場したのはパリサンジェルマンとリヨン、パリサンジェルマンはグループAでスペインのレアル・マドリッドと一騎打ちとなる。このグループは両チーム以外にスウェーデンのマルメ、ウクライナのシャフタール・ドネツクというメンバーであったが、序盤戦でパリサンジェルマンもレアル・マドリッドも下位2チームに連勝、第3節と第4節での直接対決となった。パリでの第3節はスコアレスドロー、そしてマドリッドでの第4節はレアル・マドリッドが1-0と勝利し、勝ち点を10に伸ばしたレアル・マドリッドが決勝トーナメント進出を決定し、勝ち点7のパリサンジェルマンは第5節以降に望みを託すこととなった。
 パリサンジェルマンとレアル・マドリッドの2強対決と同時に行われたマルメとシャフタール・ドネツクの試合は双方ホームゲームで勝利し、両チームとも勝ち点3となって残りの上位陣との対戦をすることになった。

■マルメ出身のズラタン・イブラヒモビッチ

 第5節は下位チームが上位陣をホームに迎える形になった。マルメはパリサンジェルマンを迎える。パリサンジェルマはこの試合で勝利すれば決勝トーナメント進出が決まるが、パリサンジェルマンのエース、ズラタン・イブラヒモビッチにとっては特別な試合になった。それは旧ユーゴスラビアからの移民の両親の間に生まれたイブラヒモビッチにとって生まれ故郷がマルメであるだけではなく、プロとしてのキャリアをスタートさせたのがこのマルメだからである。14歳でマルメのユースチームと契約し、18歳でプロ契約する。マルメはスウェーデンのチームとしては唯一チャンピオンズリーグ(前身はチャンピオンズカップ)の決勝に進出した経験を持つ。1978-79シーズンの決勝でイングランドのノッティンガム・フォレストに0-1と敗れたが、スウェーデンサッカー史に残る素晴らしい成績を残した。この街で生まれたイブラヒモビッチにとってはマルメの一員となることは夢であったであろう。

■国外のビッグクラブで活躍したイブラヒモビッチ

 しかし、夢以上の実力を持っていたイブラヒモビッチはまだ19歳である2001年にアヤックスに破格の移籍金で移籍する。その後もユベントス、インテル・ミラノ(以上イタリア)、バルセロナ(スペイン)、ACミラン(イタリア)と欧州のビッグクラブを渡り歩き、2012年にパリサンジェルマン、おそらくキャリアの最後のクラブとなるであろう。
 また、イブラヒモビッチはユベントス以降に所属したクラブではチャンピオンズリーグに出場し、素晴らしい成績を残しているが、マルメに所属していた2年間はチャンピオンズリーグに出場できなかった。それだけにチャンピオンズリーグでマルメと対戦するのは特別な感慨があるであろう。
 また、スウェーデン代表としてイブラヒモビッチは活躍しているが、ホームゲームのほとんどはストックホルム郊外のソルナやエーテボリで行われ、マルメで試合をする機会は非常に少ない。したがって、イブラヒモビッチもマルメでの試合は14年ぶりとなる。

■マルメで3回試合を行った経験のあるフランス代表

 ただし、フランス代表はマルメで試合をしたことが3回ある。最初の試合は1989年8月のスウェーデンとの親善試合である。翌年のワールドカップ・イタリア大会の予選で苦戦したフランスは監督をミッシェル・プラティニに代えて、立て直しを図る。その転機となったのがこのマルメでのスウェーデン戦であった。代表2試合目のディディエ・デシャンが大活躍し、現在のパリサンジェルマンの監督のローラン・ブランも出場し、4-2と大勝する。この試合をきっかけにフランスはチームが蘇生し、1992年の欧州選手権予選はスペイン、チェコスロバキアなどのタフな相手に8戦全勝という成績を残す。
 優勝候補筆頭としてスウェーデンに乗り込んだフランスであるが、第1戦はソルナで開催国スウェーデンと引き分ける。第2戦と第3戦をこのマルメで行い、第2戦のイングランド戦も引き分ける。第3戦のデンマーク戦で勝利すれば、決勝トーナメント進出であったが、伏兵に1-2と敗れ、苦い経験となっている。(続く)

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