第227回 スイスと32回目の対戦(1) 中欧の小国スイスの歴史

■今シーズン最初の試合はスイス戦

ワールドカップ終了後に就任したジャック・サンティーニ監督の初年度の成績は14戦で12勝1分1敗、デビュー戦となったチュニジア戦のドローと今年2月のチェコ戦での敗戦以外は全て勝利をおさめている。特に欧州選手権予選とコンフェデレーションズカップと言う公式戦が全勝と言うことは評価できる。シーズン後に欧州選手権の本大会を控え、代表チームの準備状況が注目される今季、フランス代表の最初の試合は8月20日にジュネーブでスイスと対戦する。ワールドカップや欧州選手権の本大会の出場歴が少ないスイスであるが、フランス代表は今までスイス代表と31回も対戦している。この代表試合の多さは両国の緊密な関係を反映したものであろう。しかしながら、両国の関係が緊密であればあるほど、デリケートな関係が存在するということも否定できない。そしてこれはスイスと言う国の特殊な事情に起因しているのである。

■連邦国家、永世中立国、多言語国家の歴史

 スイスは欧州の中心に存在する小国で、その面積は日本の九州とほぼ同じである。しかしながらこの山に囲まれた中央の小国には連邦国家、永世中立国、多言語国家と言う特徴がある。これらの特徴はスイスと言う国の歴史を象徴している。すでに紀元前1世紀にこの地はローマ帝国の植民地であったが、その後ローマ帝国の衰退、ゲルマン民族の大移動とともに、独立した自由都市や地方が出現するようになってきた。1291年、フィーアバルトシュテッテ湖の近くのウーリ、シュビーツ、ウンターバルデンという3つの地方の代表者は相互援助協定を結ぶ。これがスイス連邦の誕生の起源となっているのである。この協定を結んだ3つの地方は「原始3州」と呼ばれ、この地方を支配しようとするオーストリアのハプスブルグ家との絶え間ない抗争を続けることになった。この後、この協定に参加する地方が相次ぎ、14世紀にはルツェルン、チューリヒ、ベルンなどの主要地域が加盟することになり、連邦政府としての骨格が完成したのである。スイスは他国に傭兵を供給し、その見返りとして土地を獲得し、領土を拡大していったのである。
 16世紀に入り、欧州全体に宗教改革、宗教戦争が巻き起こる。これらの動きによって結合の弱い連邦を離脱する州が出ることを恐れて、連邦に加盟している各州はこの宗教戦争に加わることを控えた。これが今日まで続く中立の伝統の始まりである。

■ナポレオンによる占領後に生まれた永世中立国

 そしてスイス連邦に最大の危機が訪れる。それは1798年のナポレオンによるスイスの占領である。ナポレオンはスイスを中央集権国家の「ヘルベチア共和国」となり、そして宗教戦争にも巻き込まれず平和を保っていた国土はフランス軍とオーストリア・プロイセン・ロシア連合軍が戦う戦場となってしまう。国土が戦場と化したことにより、連邦を形成する州の間の対立やフランスに対する反発が激しくなる。このナポレオンに占領されたことを契機となり、スイスは現在の永世中立国としての地位を築く。ナポレオン失脚後、新たに連邦に加わった州もあり、22州となった。このような連邦の拡大が多言語国家の理由である。そしてこの22州からなるスイス連邦の中立を1815年のウィーン会議で欧州の列強は認めたのである。なお、この時に新たに連邦に加わった州の中にフランス語圏の独立国であったジュネーブも含まれている。実は今回フランスが試合を行うジュネーブはナポレオン以後にスイスに加わり、スイスの長い歴史から見れば新参者の土地なのである。

■微妙に変わる国際連合、EC、EUとの関係

 以後、今日に至るまでスイスは中立国家としてその地位を守り、国際連合やEC、EUにも非加盟と言う立場をとってきた。しかし、2002年には国連加盟をめぐる国民投票が行われ、1986年の国民投票で否決された国連加盟が承認されている。
 一方、欧州との関係であるが、1992年に連邦政府が当時のEC加盟申請を行ったが、国民投票で否決され、さらに2001年にもEU加盟については国民投票で否決されている。国連加盟が承認される一方で、欧州のECやEUへの加盟が否決される理由の1つには、苦い思い出のあるフランスの影響力が欧州においては強いこともあげられるであろう。しかしながら、先述したようにスイスはフランスと31試合も国際試合を行っている。そしてこの31試合の歴史を振り返ると、興味深い両国の関係が浮かび上がってくるのである。(続く)

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