第391回 今年最後の代表ゲーム (1) フレデリック・ショパンと英雄ポロネーズ

■新生フランス代表にとって2回目の親善試合

 夏にスタートし、秋からのワールドカップ予選に挑んだ新生フランス代表は、これまでに5試合戦っているが、そのうち4試合はワールドカップ予選であり、親善試合は最初のボスニア・ヘルツェゴビナ戦だけである。新チームとしての体制も整わないうちに戦ったワールドカップ予選では敗戦こそないものの2勝2分と不本意な成績である。そのような未成熟なチームにとって2回目の親善試合の機会がようやくやってきた。それが11月17日のスタッド・ド・フランスでのポーランド戦である。

■ポーランド国歌「ドンブロフスキのマズルカ」とナポレオン

 現在も世界のいたるところで悲しい物語が進行しているが、ポーランドも悲しい歴史を持つ国であり、それが結果としてフランスとポーランドとの関係の基礎となっている。ポーランドとは平原と言う意味であり、中世には強国であったが、それ以降はその名とは裏腹の歴史をたどる。伝統的に貴族階級の割合が高かったポーランドは農民が苦しい負担を背負うとともに、農業以外の産業がなかなか発達せず、近代化に遅れを取った。そして東西の大国のプロイセンとロシアに挟まれ、18世紀には3度にわたりポーランドは分割されてしまう。18世紀末に登場したのがナポレオンである。祖国を失ったポーランドはドンブロフスキ将軍が立ち上がり、イタリアでナポレオン軍に協力した。このとき歌われた「ドンブロフスキのマズルカ」が現在のポーランド国歌になっている。しかしながらナポレオンの失脚とともに、1815年にポーランドは4回目の分割をされてしまった。

■ドイツとロシアに挟まれた苦難の歴史

 100年以上の混迷を経た後、ポーランドが独立を回復したのは第一次世界大戦後のことである。欧州に平和が訪れた1918年に米国の支持によってポーランドは独立を回復、その新国家に対してフランスも1921年に同盟関係を結ぶ。しかし、その平和も長続きしなかった。1939年9月1日、ナチス・ドイツがポーランド・ドイツ不可侵条約を破ってポーランドに侵攻する。これが第二次世界大戦の始まりであった。ソ連もポーランドに侵攻し、ポーランドの東部を占領し、ポーランドは独立後20年で姿を消すとともに、ポーランドの平原には数多くの悲劇が生まれた。特に多くのユダヤ人が収容所に送り込まれたことは「シンドラーのリスト」の舞台にもなったことからもよくご存知であろう。一方、ポーランドの地で多くのポーランド人の生命を奪ったのはナチス・ドイツだけではない。ソ連占領下の地域で多くのポーランド人がソ連の収容所に送られ、4000人以上の生命を奪った「カティンの森の虐殺」もポーランド人民の心には深く刻み込まれている。
 皮肉なことに第二次世界大戦後のポーランドの独立はソ連の主導によって行われた。東側陣営の中でも多くの動きがあった。特に1980年の連帯の誕生は既存の社会主義政権を揺るがすことになった。翌年には戒厳令がしかれ、1989年6月には総選挙の結果、社会主義政党が敗退し、その秋のベルリンの壁の崩壊につながった。現在は第三共和制であるが、このようにドイツ、ソ連に挟まれたポーランドは何度も苦難の歴史をたどってきた。

■パリで活躍したフレデリック・ショパン

 逆に苦難の道を歩んでいたからこそ、故国ポーランドを逃れ他国で活躍したポーランド人も少なくない。その代表がフレデリック・ショパンである。ピアノの詩人と呼ばれるショパンはフランス人の父親とポーランド人の母親との間でポーランドで生まれたショパンは若くしてその才能が開花、8歳の時にはポーランドの貴族社会の中で認められた。21歳のときにパリに移り住むが、それはショパンの才能だけではなく、その2月後にショパンの住んでいたワルシャワがロシアに占領されると言う事件が起こったように政情が不安定であったからである。故国を追われ、父の故国であるフランスでのショパンのその後の成功はここで改めて紹介する必要もなかろう。ショパンの代表作は1840年に発表した「英雄ポロネーズ」はポーランドのナショナリズムを高揚させたナポレオンがモデルであると言われており、ショパンだけではなく多くのポーランド人がその活躍の場をフランスに求めたのである。(続く)

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