第454回 ホーム初勝利をかけたハンガリー戦(1) 1998年組の消滅とリヨン6人組

■異例の日程で行われるハンガリー戦

 5月31日の火曜日にフランス代表は今季最後の国際試合としてハンガリーと親善試合を行った。この試合日程にはいくつかの異例な点がある。まず、前週の土曜日にリーグ戦が終了したばかりであり、しかも次の土曜日にはフランスカップの決勝が控えているというシーズン大詰めの段階での試合であるということ。そして当初は中国遠征を行う予定であったが、それをキャンセルしてハンガリーと試合を行うことが2月前になって決まったこと。また試合の行われる日が通常の水曜日ではなく火曜日で行われること。そして極めつけは当初6月1日に行われる予定であったが、直前になって5月31日に試合日程が変更になったことである。試合日程の変更はハンガリー側から提案されたものである。というのもハンガリーは6月4日にワールドカップ予選のアイスランド戦を控えており、水曜日よりも火曜日に試合を行いたいというリクエストがあったからである。フランスサイドとしては当面の試合も控えていないことからこの要求を受け入れ、異例の火曜日開催となったのである。

■メッス育ちのロベール・ピレスはメンバーから外れる

 そして試合が行われるのは東部のロレーヌ地方のメッスである。ドイツ国境に近いこのロレーヌ地方もサッカーの盛んな地方であるが、なんとロレーヌ地方でフランス代表が試合を行うのは史上初めてのことである。
 炭鉱を抱え、多くの移民労働者の居住したこの地方が生んだ最大のヒーローはイタリア移民の家庭に生まれた将軍ミッシェル・プラティニである。現在の最大のスター選手はポルトガル系のロベール・ピレスであろう。ピレスはシャンパーニュ地方のランス出身であるが、若き日メッスに所属し、攻撃的MFとして得点力不足に悩むフランス代表の切り札として第二の故郷での勇姿を期待するファンも多かったが、レイモン・ドメネク監督が発表した18人のリストにその名はなかった。イングランドリーグの日程的な問題もなく、メンバーから外れたのは単純に監督の方針によるものである。
 この結果、1998年ワールドカップの優勝メンバーがついにフランス代表から消えてしまったのである。日本の皆様はメキシコ・オリンピックのメンバーが初めて消えた中で行われた1978年3月のアムール・ブラゴベンシュクとの連戦の日々を思い出されるであろう。

■ワールドカップ組にかわりリヨン勢が6人を占める

 就任以来ホームでは勝ち星なしの6戦連続引き分け、しかも得点はわずかに2という不振に悩むドメネク監督が過去の栄光を自ら断ち切る選手選考となったが、その代わりにメンバーの中で多数派となったのが4連覇を達成したリヨンの選手たちであった。登録メンバーは18人であるが、リヨンからグレゴリー・クーペ、エリック・アビダル、アントニー・レベイエール、シルバン・ビルトール、フローラン・マルーダ、シドニー・ゴブーの6人が選出された。特定のチームからフランス代表に多数の選手が選出されるのは古くは1950年代のランス(Reims)、1960年代のサンテエチエンヌ、そして1990年代初めのマルセイユ以来のことである。

■リヨン勢中心のメンバー選考が試される試合

 そして先発メンバーにはゴブー以外の5人がピッチに姿を現した。1950年代のランス中心のフランス代表は抜群のチームワークで1958年ワールドカップ・スウェーデン大会では3位に入っている。しかし、1960年代のサンテエチエンヌ中心のフランス代表は好成績を残すことができなかった。そして記憶に新しいマルセイユの最盛期は1992年の欧州選手権であった。当時のマルセイユは国内でリヨン同様に4連覇を果たしたところであった。初戦のスウェーデン戦では7人、第2戦のイングランド戦では8人、そして第3戦のデンマーク戦では6人のマルセイユ所属の選手を起用しているが、2分1敗と優勝候補はあっけなく敗退してしまっている。この敗退がマルセイユ主体のフランス代表の最後であり、ミニフランス代表だったマルセイユは翌季はリーグ5連覇、チャンピオンズリーグ優勝を果たしながら八百長疑惑でタイトルを剥奪される。その後は栄冠と無縁になったことは本連載読者の皆様ならばよくご存知のとおりである。そして国外チームを含む多数のクラブのメンバーで構成することになった以降のフランス代表はワールドカップ米国大会予選こそ最後の最後で敗退したものの、以降はさまざまな栄冠を手にすることとなった。特定のチームからの多数の選手を選出することの是非を問われることになったのが、このハンガリーとの親善試合なのである。(続く)

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