第120回 スロベニア、マルタと連戦(5) サンドニからマルタへ

■天王山を制し、マルタに移動

 天王山のスロベニア戦で大勝したフランスは試合の翌日の日曜日は休息し、月曜日の午後にはオルリー空港を立ち、夕方には地中海の中央に浮かぶ小島マルタに到着し、16日の試合に向けて準備している。
 マルタというとハンフリー・ボガードが主演した「マルタの鷹」、あるいは1989年12月3日にジョージ・H・W・ブッシュ米大統領とミハエル・ゴルバチョフ・ソ連共産党委員長が首脳会談を行い、冷戦終結を宣言した「ヤルタからマルタへ」の舞台としてよく知られているが、古くからの歴史の中でフランスや日本とも関係のある島である。

■フランス人が創設したマルタ騎士団を制圧したナポレオン

 地中海の中心に位置し、紀元前800年ころから地中海交易の中心として栄えたマルタは佐渡島の約半分の面積である。マルタも周辺各国からの支配を受け、フェニキア人、カルタゴ、ローマ帝国、トルコ、ノルマンとその支配者は変わり、1530年にマルタは聖ヨハネ騎士団の手に渡った。聖ヨハネ騎士団は11世紀にエルサレムの近くに聖ヨハネ病院を設立したのが始まりである。この創設者はフランス人のジェラール・ド・プロバンス、欧州各地から聖地巡礼に来る人々の看護のため、病院を設立したが、後に騎士団としての陣容を整え、十字軍が聖地エルサレムを奪回すると、聖地防衛に活躍するようになったのである。その後、エルサレムがイスラム勢力の手に落ちた後に、キプロスにたどり着き、14世紀にはロードス島に本拠地を移し、隆盛を誇ったのである。
 しかしながら、16世紀にはロードス島もトルコ軍に包囲され、降伏し、生き残ったわずか180人の聖ヨハネ騎士団はイタリア各地を転々としたが、1530年に神聖ローマ帝国のカール大帝5世からマルタの地を与えられ、これ以降聖ヨハネ騎士団はマルタ騎士団と呼ばれ、この島を統治したのである。マルタ騎士団の歴史にはフランス、イスラエル、キプロス、マルタが登場し、さながら21世紀初めの欧州選手権予選グループ1の組み合わせを予測していたかのようである。
 ところが、このマルタ騎士団の治世にピリオドをうったのがフランスのナポレオンであった。フランスが世界の頂点に立つちょうど200年前、ナポレオンはエジプト遠征にツーロンから出発し、途中マルタに上陸、4000人のマルタ騎士団の守備をナポレオンの28000人の兵力はいとも簡単に破り、ナポレオンはマルタに5日間滞在し、島の機構を改革してからエジプトに向かったのである。ところが、マルタはナポレオンのエジプト遠征に対抗したイギリスはその2年後マルタを奪い、1814年にマルタは英国の植民地となったのである。

■英国の植民地時代に経験した二度の世界大戦

 ここから英国の支配下として二度の世界大戦では地中海の要地として重要な役割を果たす。第一次大戦時には本連載第49回でも紹介した日英同盟を締結していた英国からの要請で地中海に日本海軍が派兵され、英国軍の輸送船の護衛につき、地中海の守り神として活躍した。その際の戦没者71名の慰霊碑がマルタの英軍墓地内に立てられている。1921年には当時皇太子であった昭和天皇がこの慰霊碑をご訪問するため、マルタに立ち寄られている。
 また、第二次世界大戦中のマルタ人民の勇敢な戦いに時のイギリス国王のジョージ4世がジョージ・クロスという勲章を贈る。マルタは1964年にイギリスから独立するが、国旗にはこのジョージ・クロスが配されているのである。

■予選最下位が指定席のマルタ

 その勇敢なマルタ人であるが、サッカーの世界ではその勇敢さを全く発揮する機会に恵まれていない。欧州選手権への挑戦は1972年のベルギー大会、ワールドカップへの挑戦は1974年の西ドイツ大会からのことであるが、1勝もすることなく、夢は破れる。その後も惨敗続きで欧州選手権予選は今までに1勝しかしたことがなく、8大会連続で予選最下位である。2002年ワールドカップの予選も、西ドイツ代表として1966年と1970年のワールドカップで活躍したジークフリート・ヘルトを監督に迎えて戦ったが、デンマーク、チェコなどと同じグループ3ではホームのチェコ戦を0-0と引き分けただけで、1分9敗で最下位と世界との距離は依然として縮まらない。
 今予選も初戦は0-3とスロベニアで敗れ、ホームで戦った第2戦もイスラエルに0-2と連敗している。フランスの優位は動かず、勝敗の行く末よりも、スロベニア戦の大勝で余裕のできたフランスの戦い方に注目したい。(続く)

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