第1151回 ボスニア・ヘルツェゴビナにアウエーで勝利 (1) 監督はパリのマジック、サフェット・スシッチ

■第3シードのボスニア・ヘルツェゴビナ

 本拠地スタッド・ド・フランスで第4シードのベラルーシに敗れて始まった2012年欧州選手権予選、チーム再建を託されたローラン・ブラン監督は就任以来連敗スタートとなった。
 そのベラルーシ戦のショックをひきずったまま、フランス代表のイレブンは次の試合に臨むことになる。ボスニア・ヘルツェゴビナと9月7日にアウエーで戦う。ボスニア・ヘルツェゴビナはベラルーシよりも1つシード順の高い第3シードである。

■プレーオフで惜敗した今回のワールドカップ予選

 ボスニア・ヘルツェゴビナもベラルーシと同様、東欧の自由化によって生まれたチームである。ユーゴスラビアの解体によって1992年にボスニア・ヘルツェゴビナは誕生した。ベラルーシの場合、サッカーにおいて旧ソビエト連邦の中心はロシアであり、ウクライナであり、ソビエト連邦下におけるベラルーシ(白ロシア共和国)は強豪ではなかった。ボスニア・ヘルツェゴビナは旧ユーゴスラビアのサッカーの中心的な役割を果たしてきた。ただしボスニア・ヘルツェゴビナは多くのタレントを輩出しながら、ボスニア紛争の影響で国際舞台へのデビューが遅く、まだワールドカップにも欧州選手権にも本大会出場を果たしたことがない。
 これまで世界の檜舞台といちばん近かった瞬間が今回のワールドカップである。グループ5で全勝したスペインに次ぎ2位になったボスニア・ヘルツェゴビナはプレーオフに進出、グループ1で2位のポルトガルと対戦する。シード順はボスニア・ヘルツェゴビナが上位であり、第1戦をポルトガルで戦うが0-1で敗れる。4日後にサラエボで逆転を狙ったボスニア・ヘルツェゴビナであるが、この試合も0-1と落としてしまい、ワールドカップ出場を果たすことができなかった。

■ジネディーヌ・ジダンなき新チームで戦った2回の対戦

 ボスニア・ヘルツェゴビナとフランスの対戦歴はこれまでに2回ある。最初は2004年8月18日のレンヌでの対戦、そして2回目はその2年後の2006年8月16日のサラエボでの対戦、いずれも欧州選手権、ワールドカップが終わり、次のシーズンを迎える前の8月の親善試合である。2004年の対戦については本連載第362回から第364回で紹介したが、欧州選手権決勝トーナメント1回戦での敗退を受けて、ジネディーヌ・ジダン、ビシャンテ・リザラズ、マルセル・デサイー、リリアン・テュラムが代表から引退、そしてレイモン・ドメネクが新監督になり、その後長きにわたって指揮を執ることになるドメネク監督のデビュー戦であり、1-1のドローであった。
 2回目の対戦はベテラン勢を呼び戻し、ドイツでのワールドカップで準優勝に輝いた直後の試合である。本連載第596回から第599回で紹介したとおり、この試合はドイツのワールドカップ組の選手が多く出場したが、ロスタイムにこの日が代表デビューとなる背番号10のジュリアン・フォーベールが決勝点をあげている。その一方で長らく背番号10を背負っていたジダンが現役を引退している。つまり今までの2回のボスニア・ヘルツェゴビナ戦はジダンなき新チームで戦っているのである。

■予選敗退後に監督に就任したサフェット・スシッチ

 ボスニア・ヘルツェゴビナは今回のワールドカップ予選はイラン代表監督の経験もあるミラスノフ・ブラゼビッチ監督のもとで戦ったが、予選敗退後、昨年12月にサフェット・スシッチが新監督に就任する。スシッチは1982年のスペインでのワールドカップの活躍が認められ、FKサラエボからパリサンジェルマンに移籍する。パリサンジェルマンでは10番を背負い、パリサンジェルマンのリーグ初優勝に貢献、その魔法のようなボールさばきからマジック・スシッチとパリジャンのヒーローになる。現役引退の1年前までの9シーズン、パリサンジェルマンのスペクタクルな攻撃を演出してきた。フランス人にとってスシッチが率いるチームは非常に興味深いものであろう。
 そのスシッチのボスニア・ヘルツェゴビナは9月4日にアウエーでルクセンブルクを3-0と一蹴、フランス人以上にフランス人的なプレーヤーだったスシッチはフランスにどう立ち向かうのであろうか。(続く)

このページのTOPへ