第61回 2001-02フランス・サッカー・フィナーレ(6) フリアニの悲劇から10年、バスティア決勝進出

■再選を果たしたジャック・シラク大統領臨席のフランスカップ決勝

 フランス・サッカーのフィナーレを飾る伝統のフランスカップ決勝。フランス国内最古のタイトルであり、フランス共和国大統領が臨席する。今年はフランスカップの1週間前に大統領選挙の決選投票が行われ、現職のジャック・シラク大統領が国民戦線のジャン・マリー・ルペン党首を大差で破ったことは日本の読者の皆さんもよくご存知のことであろう。国家の元首としてカップ戦の決勝に姿を現す、これほど晴れがましいこともないであろう。特に再選を果たしたばかりで、喜びに包まれたシラク大統領にとって今回の決勝は新たな門出を祝福するはずであった。しかし、今回の決勝戦で思いもかけないアクシデントが起こったのである。

■リーグ不振のロリアンとバスティアが決勝進出

 フランスカップの決勝は今までの連載で紹介したとおり、ロリアンとバスティアが対戦する。ロリアンはリーグ最下位で2部降格、かたやバスティアはリーグ11位、両チームともリーグ戦では不振であったが、伝統のフランスカップを獲得し、来季に弾みをつけようという意気込みは十分である。フランスカップの決勝は初進出であるロリアンは、今季はリーグカップの決勝に進出してボルドーに0-3で敗れたが、その雪辱を果たしたいところである。2部降格が決まったチームが優勝すれば、昨年のストラスブールに続き史上4回目のことになる。
 一方のバスティアは過去にUEFAカップの決勝にも進出したことのあるチームである。決勝進出の際に当時のバスティアのジルベルト・トリガノ会長がジャック・タチ監督にドキュメンタリーの制作を依頼した。「フォルツァ・バスティア」というタイトルの短編映画は昨年日本でも上映されたことから、コルス(コルシカ)島を代表するこのクラブについて日本のファンの皆さんもよくご存知のことであろう。
 バスティアはリーグ優勝こそないが、フランスカップについては1971-72シーズンに決勝に進出、マルセイユに敗れて準優勝、そして1980-81シーズンの決勝ではカメルーン代表として活躍したロジェ・ミラ、カンボジア出身のアラン・フィアールなどを擁し、将軍ミッシェル・プラティニ、本連載第35回で紹介したジェラール・ジャンビオン、リヨンの監督として今季のフランスリーグを制したジャック・サンティーニなど豪華メンバーのサンテエチエンヌを2-1と下し、初優勝を飾っている。

■1992年5月5日「フリアニの悲劇」

 バスティアとフランスカップを語る際に忘れてはならないのが「フリアニの悲劇」である。フリアニの悲劇に関してはサッカークリックの「フランス・サッカー実存主義」の第7回でも取り上げており、本サイトのリンク集であるCollectionを経由して参照していただきたいが、簡単に紹介すると以下のとおりである。
 1991-92シーズンのフランスカップで当時2部に所属していたバスティアは勝ち進み、準決勝に進出する。準決勝は地元バスティアに当時絶頂にあったマルセイユを迎えて行うことになった。ところがホームスタジアムのフリアニ・スタジアムの収容人員はわずか8000人。開催地を変更する案もあったが、仮設スタジアムを突貫工事で完成させ、試合にはコルス島内外からの1万5000人の観客がつめかける。そしてキックオフを待つ間に仮設スタンドが崩れ落ち、死者17人、負傷者2000人というフランスのサッカー史上例のない惨事となったのである。そして試合はキックオフされず、準決勝、決勝とも行われなかったのである。第二次世界大戦中も中断されることのなかったフランスカップ唯一の中断がこの「フリアニの悲劇」の1992年のことなのである。

■コルス島の独立運動

 この惨事の引き金となったのがコルス島の民族主義を背景とした独立運動である。元々イタリアの支配下にあり、18世紀からフランスに属しているコルス島の独立運動の歴史は長い。第二次世界大戦後の経済復興はもたらされず、産業も芽生えなかった。平野の少ない山間地ばかりの島からの人口流出はとどまらず、唯一の産業はアルジェリア戦争後フランス人引揚げ者が入植したぶどうの栽培を中心とする農業くらいであった。
 そのような中で1960年代以降コルス島ではFLNC(コルス民族主義解放戦線)などによる独立運動が盛んになっていった。以来独立過激派の爆弾テロやマフィアの殺傷事件が相次いだ。この独立運動を鎮めるために政府はさまざまな対策を講じてきた。経済援助、優遇税制、自治権の拡大などであるが、この中の代表的なものが1981年に就任したフランソワ・ミッテラン前大統領の地方分権政策の一環であるコルス議会の設置である。このような政策にもかかわらず、独立運動の気運は衰えない。そして悲劇からちょうど10年たった今回のフランスカップ決勝のキックオフ前に事件が起こったのである。(続く)

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