第1443回 名門スタッド・ド・ランスの復活(1) シャンペンの都のサッカーチーム

 昨年3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■米国でプレシーズンの試合が続いたフランスのサッカー界

 今年の夏は恒例のツール・ド・フランスに加え、ロンドンオリンピックでのフランスの団体球技勢の活躍、さらに欧州選手権敗退後にディディエ・デシャン監督のフランス代表監督に就任、と例年以上にフランスのスポーツ界は盛りだくさんのメニューとなった。
 そして夏はサッカーシーズンの始まりである。今季はシーズン前にパリサンジェルマンが米国遠征し、ニューヨークのヤンキースタジアムでイングランドのチェルシーと親善試合、リーグ優勝チームのモンペリエとフランスカップ勝者のリヨンがニューヨークのレッドブルスタジアムでチャンピオンズトロフィーを争うなど、例年になく豪華なプレシーズンとなった。

■優勝を争う強豪にも負けない注目を集めるスタッド・ド・ランス

 大型補強2年目となり、今季こそ覇権奪回を狙うパリサンジェルマン、連覇を狙うモンペリエ、そして2年ぶりの優勝を狙うリール、さらに今世紀になってから優勝経験のあるリヨン、マルセイユ、ボルドーと優勝争いへの興味は尽きない。しかし、今季のリーグでこれらの優勝候補以上の注目を集めているのが、今季1部に昇格したスタッド・ド・ランスであろう。
 ランスと表現すると近年のファンの方は北部にあるLensのRCランスを連想される方が多いであろうが、同じランスでもシャンパーニュ地方にあるReimsのサッカーチームがスタッド・ド・ランスである。

■シャンペンメーカーのポメリー社が設立したスポーツクラブ

 シャンペンの都であるランス、1910年にシャンペンメーカーのポメリー社が陸上、サッカー、ラグビー、体操、自転車などを行う総合スポーツクラブ、ポメリー公園スポーツ協会を立ち上げ、これが現在のクラブの原型となっている。初代の会長はポメリー社の会長であるメルキオール・ド・ポリニャックであり、スポーツ好きな経営者でありのちにIOCの委員を約30年務めている。またユニフォームの色はシャンペンのボトルの濃い緑とラベルの金の二色であった。
 1931年にはスタッド・ド・ランスと改称する。当時、フランスではプロサッカー化の動きがあり、この合併時にスタッド・ド・ランスはサッカー部門とそれ以外の部門に分け、サッカー部門はプロ化を目指して運営し、イングランドから監督や選手を招いたのである。この時、チームカラーはシャンペン製造者のポメリー社の要素を消すためにオレンジと黒になる。1932年に20チームで始まったプロリーグの開幕にはエントリーせず、プロリーグに加盟したのは1935年のことであり、第二次世界大戦前は2部以下のリーグに所属していた。

■企業のクラブから地域のクラブへ、平和の訪れとともに1部昇格

 また、1938年には地元のスポーツクラブのランススポーツクラブを吸収合併し、その際に、チームカラーをランススポーツクラブが使っていた赤と白にする。このような歴史で、企業のスポーツクラブが地域のスポーツクラブになったのである。
 スタッド・ド・ランスに栄光が訪れたのは第二次世界大戦後のことである。すでに第二次世界大戦中に1部昇格の権利を得ていたものの、戦時下のフランスは全国リーグの開催が難しく、1939年から1945年にかけてはフランスでは地域に分けてリーグ戦を行っていた。欧州の平和の到来とともに、1945-46シーズンからスタッド・ド・ランスは1部リーグに昇格したのである。
 この1945-46シーズンは1945年8月26日に始まった。18チーム中、この1945年から1部リーグに昇格したのはスタッド・ド・ランス以外にボルドー、リール、リヨン、レッドスター、レンヌ、ルーベ・トゥールコワンと8チームが新顔という新時代の到来を象徴する顔ぶれとなった。
 第二次世界大戦後初の全国リーグの覇者は初昇格のリール、2位はサンテチエンヌ、3位は初昇格のルーベ・トゥールコワン、そしてスタッド・ド・ランスは見事に4位に入ったのである。
 この新時代に1部リーグでの歩みを始めたスタッド・ド・ランスは戦後の復興と期を同じくして、栄光の日々が続いたのである。(続く)

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