第1444回 名門スタッド・ド・ランスの復活(2) 第1回チャンピオンズカップで準優勝

 昨年3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■1部昇格4季めにリーグ初優勝

 第二次世界大戦が終了し、世界に平和が訪れた1945-46シーズンに全国リーグが復活したフランスリーグ。このシーズン初めて1部に昇格したスタッド・ド・ランスは18チーム中4位に躍進する。次のシーズンは2位にステップアップ、ピエール・シニバルディが得点王に輝き、スタッド・ド・ランスと共に1部に昇格したルーベ・トゥルコワンに勝ち点4差で優勝を譲る。3季めは大混戦となり、マルセイユが優勝、2位は勝ち点1差でリール、スタッド・ド・ランスはリールと勝ち点1差であった。そしてスタッド・ド・ランスに栄光の瞬間が訪れたのは4季めの1948-49シーズンのことであった。リールと激しい首位争いを演じ、勝ち点1の差でスタッド・ド・ランスが初優勝する。
 このチームの得点王はピエール・ビニ、日本のサッカーファンの皆様であればよくご存じであろう。ロンドンオリンピックの女子サッカー準決勝で日本が対戦したフランスを率いていたブルーノ・ビニ監督の父親である。

■現役引退後監督に就任したアルベール・バトー

 そしてこのチームの主将を忘れてはならない。その男の名はアルベール・バトーである。1919年生まれのバトーは18歳でスタッド・ド・ランスとプロ契約した才能の持ち主であったが、戦禍により選手生命を中断される。しかし、戦後、再びユニフォームを着ることになり、スタッド・ド・ランスの中心選手となる。初めてフランス代表に選ばれたのが28歳の時であり、第一次世界大戦終結の翌年に生まれたバトーは選手としてのピークの時期が第二次世界大戦と重なり、わずか8試合しか代表チームでプレーできなかったが、監督として大輪の花を咲かせた。
 1950年に引退し、そのままスタッド・ド・ランスの監督となる。バトー時代のスタッド・ド・ランスにはフランス全体から優秀な選手が集まってきた。バトーと共にプレーしたロベール・ジョンケに加え、アンジェからはポーランド系のフランス人のレイモン・コパが加わる。後に1870年代終わりから1984年代半ばまでフランス代表監督を務めたミッシェル・イダルゴはルアーブルから移籍してきた。そして1958年のワールドカップで活躍するジュスト・フォンテーヌはモロッコのカサブランカからニースを経由してスタッド・ド・ランスのユニフォームを着ることになった。

■リーグ戦で常に優勝争いを演じたバトー時代のスタッド・ド・ランス

 これらの豪華メンバーを抱えたランスは攻撃サッカーを標榜したバトー監督の下で快進撃、1950年代から1960年代にかけて常にリーグ戦で優勝争いを演じる。バトー監督の3年目の1952-53シーズンにはリーグ制覇、さらにイタリア、スペイン、ポルトガルのリーグチャンピオンと争うラテンカップにも出場し、スペインのバレンシア、イタリアのACミランを破り優勝する。1949年から中断をはさみ1957年までこの大会があったが、フランス勢としてこれが唯一の優勝である。

■第1回チャンピオンズカップ決勝でレアル・マドリッドと大激戦

 1954-55シーズンには3回目のリーグ優勝を果たし、翌1955-56シーズンにはこの年から始まったチャンピオンズカップに出場する。準決勝まではホームアンドアウエー形式のノックアウト方式で行われ、1回戦でデンマークのオーフスを下し、準々決勝ではハンガリーのMTKハンガリアを下す。準決勝はスコットランドのハイバーニアンに連勝し、決勝に進出する。
 パリのパルク・デ・プランスでの決勝の相手はスペインのレアル・マドリッド、この試合は伝説的な試合となり、その後のチャンピオンズカップ、チャンピオンズリーグの隆盛を導くことになる。スタッド・ド・ランスが立ち上がりに2点先取する。しかし、レアル・マドリッドも前半のうちに追いつく。2-2で迎えた後半、先手を取ったのはスタッド・ド・ランスであったが、レアル・マドリッドは逆転し、4-3と接戦を制したレアル・マドリッドが初代欧州王者となったが、スタッド・ド・ランスの名は初代ファイナリストとして長く語り継がれることになったのである。(続く)

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