第45回 伝統国スコットランドと対戦(2) 伝統国の誇り、紺のユニフォームと背番号

■他国が敬意を示す紺のユニフォーム

 スコットランドのサッカーの歴史はイングランドに次ぐものであり、その伝統国としての誇り、そして他国からの畏敬がいたるところに見える。まず、スコットランドの象徴であるセントアンドリュー旗に由来する青(紺)のユニフォーム。他国のファーストユニフォームの色が青系統の場合、他国は伝統国に敬意を表して青以外のユニフォームを着用した。フランスもスコットランドと対戦する場合、第二次世界大戦前は赤いユニフォームを着用していた。そのような中で特筆すべきは1949年4月27日に初めてフランスをスコットランドの地に招いた際のことであろう。その前年にパリ郊外のコロンブでフランスに初勝利を献上したスコットランドは遠来のフランスに敬意を表して淡黄色とピンクのユニフォームでフランスを迎える。淡黄色はスコットランドの旧家の紋章に多く使われている色であること、そしてピンクはスコットランドのシンボルであり、守り神であるあざみの花の色である。そしてこの紺ではないユニフォームでフランスに2-0と返り討ちを果たすのである。なお、グラスゴーのハンプデンパークには125,631人の観衆が集まっている。これはフランス代表の試合で最も多くの観衆が集まった試合である。

■伝統を尊重する1番から11番までの背番号

 そして、もう一つは背番号。元来、サッカーの先発メンバーは1番から11番までの背番号を着用するのが伝統である。代表チームの場合、例外的にワールドカップや欧州選手権の本大会のような大会ではエントリー時に選手の背番号を登録する固定番号制が運用されてきた。しかし、これらの予選の際には先発メンバーは1番から11番までの背番号を着用してきた。
 ところが最近は各国とも代表チームも選手に固有の番号を付与することが多くなってきた。フランス代表の場合、最近は先発メンバーであっても正GKのファビアン・バルテスは第2GKの番号である16番、エマニュエル・プチは17番などを着用しているが、つい数年前まで先発メンバーは1番から11番という伝統を堅持してきた。フランス代表の歴史において初めて先発メンバーが1番から11番以外の番号を着用したのは、1985年4月3日にサラエボで行われたワールドカップ・メキシコ大会予選のユーゴスラビア戦。負けなければフランス代表として15戦連続無敗という当時の記録を更新する試合の先発メンバーに背番号7は存在しなかった。背番号7の代わりに本連載第28回でも紹介したジャン・ティガナが背番号14を着用して先発メンバーに名を連ねた。前年の欧州選手権優勝の主力メンバーであるティガナがその際の背番号をつけて先発メンバーとなり、アウエーの難敵相手にスコアレスドローに持ち込んだのである。しかしながら、再び先発メンバーは1番から11番という形式に戻り、1996年の欧州選手権のあたりから、選手が固定的な番号を着用するようになったのである。
 一方、スコットランドは伝統を頑なに守り、現在でもワールドカップや欧州選手権の本大会以外では先発メンバーは1番から11番をつけている。

■スコットランド史上唯一の例外、キリンカップ

 ここで日本の読者の皆さんで疑義をもたれる方もおられるであろう。というのはスコットランドが1995年に日本に遠征し、日本、エクアドルと対戦したが、その第1戦、雨の広島ビッグアーチでの日本戦、先発メンバーのクレイグ・バーリーは背番号16をつけていたからである。1995年5月21日、100年以上の歴史を誇るスコットランド代表チームにおいて初めてワールドカップ、欧州選手権の本大会以外で1番から11番以外の背番号をつけた選手が先発メンバーになったのである。続く24日のエクアドル戦には12番以上の背番号をつけた選手が3人先発メンバーに名を連ねる。これはキリンカップの大会規定によるものであるが、キリンカップがワールドカップや欧州選手権なみの規定を設け、さすがの伝統国もこの規定に従わざるを得なかった。当時の日本サッカー界は2002年のワールドカップの招致運動を展開していたが、キリンカップがすでにワールドカップや欧州選手権と同等のレベルの大会であることを世界に向けて情報発信したことは、翌年の開催決定に大きく寄与したと考えられる。(続く)

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