第51回 東欧の巨人ロシアと対戦(3) 欧州選手権の誕生とフランスのNATO軍事機構からの脱退

■1950年代後半から1960年代初めの東西関係の緊張

 西側陣営の北大西洋条約機構(NATO)に対抗して東側諸国がワルシャワ条約を締結した1955年から1960年代初めにかけて東西関係は緊張し、軍備拡張運動が起こる。
 1957年の6月には米国が大陸間弾道ミサイル(ICBM)の打ち上げ実験に成功するが、8月にはソ連も同様に打ち上げ実験に成功する。そしてその2月後の10月4日、ソ連は世界初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し、この分野での米国に対する優位性を世界中に示威する。1961年にはソ連のガガーリンは世界初の有人宇宙飛行も成功させる。一方、西ドイツ議会は核武装を決議し、西欧諸国に中距離弾道ミサイルを配備する動きもあり、西側陣営の対ソ政策も硬化してきた。1961年8月にはベルリンの壁が築かれ、東西の軍拡競争とそれに伴う緊張感も高まり、1962年10月にはキューバ危機が起こる。

■欧州選手権の誕生と東側の勝利

 このような東西間の緊張の中で、誕生したのが欧州選手権である。1950年代のオリンピックは実質的にはプロであるステートアマを抱える東欧勢の独壇場であり、1952年のヘルシンキ大会では優勝はハンガリー、準優勝はユーゴスラビア、1956年のメルボルン大会では優勝はソ連、準優勝はユーゴスラビア、3位もブルガリアと、西欧勢の入り込む余地はなかった。オリンピックでメダルを獲得する東側陣営に打撃を与えるために西側陣営はオリンピックと同年にフル代表での大会を開催しよう企画したのである。ところが、日程の過密を理由に西側のイングランド、西ドイツ、イタリアなどはエントリーせず、わずか17か国が参加するにとどまり、フランス対東欧という構図になった。1958年のワールドカップ・スウェーデン大会終了後から各地で予選が行われ、フランスは予選の1回戦でギリシャを7-1と破り、2回戦でオーストリアにホームで5-4、アウエーで4-2と連勝し、本大会出場を決める。本大会は4か国で争われ、フランス以外はソ連、チェコスロバキア、ユーゴスラビアと東欧勢が占めた。本大会は1960年7月にフランスで行われた。東西間の緊張が高まる中でフランスは期待を集めたが、1回戦でユーゴスラビアとパリで対戦したフランスは壮絶な点の取り合いの末、4-5と敗れる。もう一つの1回戦はソ連がチェコスロバキアを破って決勝に進出し、フランスが東側陣営の総本山であるソ連と対戦することは実現しなかった。ソ連は決勝でユーゴスラビアを2-1と下し、軍備や宇宙開発だけではなくサッカーの世界でもその優位性を誇示したのである。一方、西側陣営の期待を集めたフランスはマルセイユでの3位決定戦でも元気がなく、チェコスロバキアに0-2と敗れ、4位にとどまり、欧州のベスト3は東欧諸国であった。

■緊張緩和とフランスのNATOの軍事機構からの脱退

 東西冷戦の緊張の中でのサッカーの世界での東西対決は見事に東側に軍配が上がったが、1962年のキューバ危機の後、東西間の緊張が緩和(デタント)される。1963年の6月には米ソ首脳の間にホットラインが敷設され、8月には米国、ソ連、英国が地下実験以外の核実験を禁止する部分的核実験禁止条約を調印する。年末までに100か国以上が追随するが、フランスと中国だけは参加しなかった。そして1966年、シャルル・ド・ゴール大統領はNATOにおける米国と英国の支配に反発し、7月1日にフランスはNATOの軍事機構から脱退する。それに伴いNATOの本部もパリからブリュッセルに移転する。

■再びホームアンドアウエーで親善試合

 このような緊張緩和とフランスのNATOの軍事機構からの脱退、という状況下でフランスとソ連は再びホームアンドアウエーで親善試合を行ったのである。イングランドでのワールドカップを翌月に控えた1966年6月5日にフランスはモスクワを訪れる。ソ連もワールドカップの出場国であり、相手に不足はない。この試合も前回の本連載で紹介した最初の対戦同様、フランスが先制する。19分に先制したフランスは21分に追加点をあげる。ところがソ連も26分に1点返した後、後半に入って64分に同点に追いつき、66分についに逆転する。ナポレオンのモスクワ遠征同様の展開か、と思われたが78分にジョセフ・ボネルがゴールをあげて、モスクワでの対戦は前回に引き続きドローとなった。
 ワールドカップ・イングランド大会での惨敗(1分2敗)の後、再起を期すフランスはモスクワ遠征の1年後となる1967年6月3日にソ連をパリに迎える。名手レフ・ヤシンからフィリップ・ゴンデとジャック・シモンがゴールを奪うが、経験の少ないDF陣は失点を重ね、2-4と負けてしまったのである。(続く)

このページのTOPへ