第310回 オランダと対戦(1) ルイ14世とオランダ戦争

■江戸時代以来の日本とオランダの交流

 6月の欧州選手権開幕まであと2月あまり、国内外のリーグ戦、カップ戦が佳境を迎える中で3月31日には欧州各地で国際試合が開催される。フランスはロッテルダムでオランダと親善試合を行う。
 相手のオランダは江戸時代に日本と交流があった数少ない国であり、オランダ文化は日本の社会、文化に大きな影響を与えているのであろう。葛飾北斎がオランダ人のファン・ビンセント・ゴッホを経由してフランス人のトゥールーズ・ロートレックに影響を与えるというように日本文化はオランダ経由でフランスに伝わったのである。また、ワークシェアリングという考え方はオランダを起源としており、昨今の日本経済の主要な労働力となっているフリーターというものはオランダから影響を受ける日本ならではの労働形態であるといえよう。第二次世界大戦で不幸にも日本とオランダは敵国となり、オランダでは年配の人の中にはいまだに反日感情を持つ人が少なくない。しかし、サッカーの世界では良好な関係を保っているようである。
 サッカーの世界でもアカイ・エクセルシオールとの蜜月から始まり、ハンス・オフトの日本のクラブチームや代表チームでの指揮官としての名声、そして近年の小倉隆史、小野伸二、戸田和幸、藤田俊哉のオランダのクラブチームでの活躍は、江戸時代以来の蘭日の交流を感じさせる。

■スイスからの傭兵で領地拡張を狙った太陽王ルイ14世

 フランスもオランダとは決して良好な関係ばかりを築いてきたわけではない。太陽王と呼ばれたルイ14世はフランス史の中でも絶対王政の象徴として言われている。ベルサイユ宮殿の建造でよく知られているルイ14世は、他国への侵略を繰り返した侵略王でもあった。ルイ14世の軍隊の主力となったのはスイスからの傭兵である。当時のフランス王室は農業資源に乏しいスイスからの傭兵を雇い、他国への侵略を試みていたのである。勇敢なスイス傭兵は他の欧州諸国からも人気があったが、スイス側はもっともフランス王室を重視し、傭兵の見返りとして多くの食料をフランスから受け取っていたのである。

■ルイ14世の仕掛けたオランダ戦争は失敗

 ルイ14世は1672年にオランダ戦争を仕掛けた。このオランダ戦争には伏線があり、英国がその直前にオランダと航海条約をめぐって2度に渡り戦争をしており、2度目の戦いでオランダはイギリスに新大陸のニューアムステルダムを英国に割譲している。このニューアムステルダムこそ現在のニューヨークである。フランスは海の世界で勢力を失いつつあったオランダの陸地を侵略しようとしてオランダに攻め込む。そして英国もこれに加担し、オランダに対して参戦する。英仏連合軍の攻撃を受けたオランダであったが、ホームアドバンテージを活かす。低地での戦いに持ち込み、そこに海水を引き込んでフランス軍を退散させる。また、各国の王室にネットワークを持つオランダは外交面でもフランスを包囲する。この結果、領土拡張を狙ったルイ14世は和平に持ち込まれ、戦費の浪費による国家財政の悪化だけが結果として残ったのである。一方の英国も戦争で勝利をすることはできなかったが、3次にわたるオランダとの戦いにより海上での勢力を磐石なものにしたのである。

■オランダ戦争を遠因とするフランスの三色旗

 オランダにとってルイ14世は仇敵であったが、14はオランダのサッカー史上最高の選手であるヨハン・クライフの背番号であり、ロッテルダムの英雄である小野伸二の背番号もまた14である。
 このオランダ戦争は100年以上後のフランス革命の遠因となっている。ルイ王朝による外交の失敗は民衆の蜂起を呼ぶことになる。1789年のフランス革命の際に青、白、赤からなる現在のフランス国旗が制定され、その由来はさまざまなものが存在するが、一説によると世界最初の共和制を敷いたオランダに敬意を示したものと言われている。オランダの国旗は青、白、赤の横縞であり、これを縦にしたものがフランス国旗になったわけである。現在のオランダは君主制となっているが、フランスもまた強力な大統領制である。民衆の力だけではなく国家元首の強さを求める点で両国は似ているであろう。そして両国はともに欧州連合の起源である欧州石炭鉄鋼共同体のメンバーであり、サッカーの世界でもFIFAの設立時のメンバーでもある。両国の国旗を並べてみると、歴史の大きな流れを感じるのである。(続く)

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