第1425回 ロンドンオリンピック間もなく開幕(2) プロが解禁されたロスアンジェルスで金メダル

 昨年3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■公式には認められなかった黎明期のサッカー競技

 前回の本連載では女子がオリンピックに初出場することを紹介したが、今回は男子について紹介しよう。
 オリンピックにおいて男子のサッカーの位置づけは大きな変動とともにある。近代オリンピックとして第2回となる1900年のパリオリンピックでサッカーが行われたが、参加チームはわずか3、そしていずれもが代表チームではなく、英国、フランス、ベルギーの単独チームであった。フランスはパリ地区のトーナメントのシェリフ・デワー杯で優勝したクラブフランセが出場し、銀メダルを獲得している。サッカー競技はその後1932年のロスアンジェルス大会を除き、実施されてきたが、黎明期の1900年大会と1904年大会はFIFAから公式戦として認められていない。

■思うような成績を残せなかった第二次世界大戦前

 FIFAに認められるようになったのは1908年のロンドン大会である。フランスも1904年位初めて代表チームを結成し、初の国際大会に挑んだが、デンマークに0-9と歴史的な大敗を喫する。1920年のアントワープ大会では準決勝でチェコスロバキアに敗れたが、順位決定戦に出場しなかったため順位がつかなかった。1924年の地元開催のパリオリンピックでは準々決勝でウルグアイに敗れる。ウルグアイはこのパリオリンピック、次のアムステルダムオリンピックで連続優勝し、1930年のワールドカップ開催のきっかけとなる。1928年のアムステルダムオリンピックでは1回戦でイタリアに敗れたが、これがフランスにとって最後のフル代表によるオリンピック参戦であった。
 1930年のワールドカップ開始とともにオリンピックの位置づけが変わり、1932年のロサンジェルス大会ではサッカーは実施されなかった。第二次世界大戦前最後のオリンピックとなったベルリンオリンピックではフランスは選手を派遣しなかった。

■東欧の厚い壁に阻まれた第二次世界大戦後

 第二次世界大戦後、オリンピックはアマチュアの大会となる。フランスはアマチュアの選手をオリンピックに派遣、オリンピック予選では東欧のステートアマ相手に苦戦し、戦後フランスがオリンピックにコマを進めたのは1948年のロンドン(英国に1回戦負け)、1952年のヘルシンキ(ポーランドに1回戦負け)、1960年のローマ(グループリーグでハンガリーに敗れる)、1968年のメキシコ(グループリーグを首位突破も準々決勝で日本に敗れる)、1976年のモントリオール(グループリーグを首位突破も準々決勝で東ドイツに敗れる)と不本意な成績を残してきた。またオリンピックに出場した選手で後に大成したのは1976年モントリオール大会に出場したパトリック・バティストンとミッシェル・プラティニくらいであろう。

■プロ選手の出場が容認されたロスアンジェルスで金メダル

 そして第1の転機が1980年代に訪れた。1980年のモスクワオリンピックから出場資格がアマチュアからワールドカップの本大会、予選に出場したことがないこと、となった。結果的にソ連のアフガニスタン侵攻で多数の西側諸国がボイコットし、フランスも本大会に出場できなかったが、その4年後のロスアンジェルス大会ではついにプロが容認される。
 1984年はフランスサッカーにとって素晴らしい1年となった。6月に地元で開催された欧州選手権では8年前のモントリオールオリンピックで活躍したプラティニが主将としてチームを率い、見事優勝を果たす。
 夏のオリンピックには若いプロ選手が集まった。ギ・ラコンブ、ウィリアム・アヤシュ、ダニエル・ゼレーブ、ミッシェル・ビバールなど17人のメンバー中12人がフランス代表でも活躍している。若き秀英を率いるのはアンリ・ミッシェル、このミッシェルに率いられたイレブンは東海岸で行われたグループリーグこそ苦戦したものの、決勝トーナメントは3試合ともパサディナのローズボウルで戦い、エジプト、ユーゴスラビアを下し、10万人以上の観衆の集まった決勝戦では闘将ドゥンガ率いるブラジルに対し、ゼレーブ、フランソワ・ブリッソンのゴールで2-0と勝利、フランスの団体球技としては1900年パリオリンピックのラグビー、1924年パリオリンピックの水球以来の金メダルとなったのである。(続く)

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