第1508回 政情不安の中でアフリカ選手権開幕(5) 国外移籍のパイオニア、トーゴのディディエ・シス

 一昨年3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■フランス代表の10番、監督を経験したアンリ・ミッシェル

 前回の本連載ではフランス人監督のうち、マリのパトリス・カルトロンとコートジボワールのサブリ・ラムシを紹介したが、ほかにもフランス人の監督が今回のアフリカ選手権で活躍している。
 トーゴのディディエ・シス監督は選手としてビッグネームである。フランスからアフリカに渡った監督のうち、選手時代にスターだった監督は少なくない。その代表例がアンリ・ミッシェルであり、アラン・ジレスであり、ポール・ルグアンであり、前回紹介したラムシも該当するであろう。
 ミッシェルは本連載で何回も紹介している通り、1978年ワールドカップでは10番をつけたエースであり、監督としてはフランス代表監督として1886年ワールドカップ3位、1994年ワールドカップではカメルーン代表、1998年ワールドカップではモロッコ代表監督、そして2004年ワールドカップではコートジボワール代表の監督として4か国の代表監督としてワールドカップに出場している。それ以外にチュニジア、赤道ギニア、ケニヤの代表監督の経験もある。

■訪日経験のあるアラン・ジレスとポール・ルグアン

 ジレスは1985年にボルドーの一員として訪日したことから日本の皆様ならばよくご存じの選手であるが、1980年代にフランス代表として活躍し、出場した3回の国際大会では、1982年ワールドカップ4位、1984年欧州選手権優勝、1986年ワールドカップ3位と素晴らしい成績を残している。指導者としては2001年以降、国外に移り、ガボン代表、マリ代表を率い、昨年のこの大会ではマリを3位に導いている。
 ルグアンは2010年のワールドカップでカメルーンを率い、2011年以降はオマーン代表監督として日本と戦っていることから監督として日本の皆様はよくご存じであろうが、選手としてはブレスト、ナント、パリサンジェルマンで活躍し、フランス代表としても活躍している。1993年から1995年までの2年間の代表入りし、1994年の日本遠征にも参加し、日本戦に出場している。選手としてはパリサンジェルマンのリーグ優勝、カップウィナーズカップ優勝に貢献し、引退後は指導者の道を歩むが、リヨンの7連覇開始時の監督であり、監督としての才能を発揮した。カメルーン代表監督には2009年に就任し、2010年のアフリカ選手権、ワールドカップの予選突破を果たしたが、アフリカ選手権は準々決勝でエジプトに敗れ、ワールドカップではグループリーグ3連敗と期待に応えることができず辞任している。

■ミッシェル・プラティニより先に国外移籍したディディエ・シス

 そしてシスは元日本代表監督のイビチャ・オシム監督と選手時代にバランシエンヌのチームメートとしてバランシエンヌの黄金期を形成したことから日本でもよく知られているが、17歳で2部、18歳で1部の試合に出場と若き天才であった。1976年には21歳の若さでミッシェル・プラティニ、マキシム・ボッシとともにフランス代表にデビューし、1978年と1982年のワールドカップ、1984年欧州選手権でも活躍している。
 そしてシスについて特筆すべきは1980年にベルギーのサークル・ブルージュ、1981年に当時西ドイツのシュツットガルト、1984年にイングランドのアストンビラと国外のクラブに移籍していることである。フランスのサッカー選手の国外クラブ移籍のパイオニアというとイタリアのユベントスに移籍したプラティニの名が上がるが、プラティニのユベントス入りは1982年のことであり、シスこそパイオニアなのである。

■悲劇から3年、7年ぶりに本大会に出場するトーゴ

 シスは全盛期を越えた後もトルコのガラタサライでプレーし、現役生活をドイツのライプチヒで終えている。引退後指導者になることはなかったが、2011年末にトーゴの監督に就任した。トーゴは2012年アフリカ選手権予選は5チーム中4位で敗退し、2014年ワールドカップの予選を迎えるに当たり、シスを招聘する。シスの率いるトーゴは11月に行われた第1次予選でギニアビサウに1勝1分で下したが、2012年1月に行われたアフリカ選手権には出場できなかった。2月から始まった今回のアフリカ選手権予選はケニヤ、ガボンを下した。2010年大会は大会直前にチームが襲撃にあったため、出場できなかったため、トーゴは2006年大会以来7年ぶりの本大会出場となったのである。(続く)

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