第1867回 追悼、ジャン・リュック・サスース

 4年前の3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■パリサンジェルマンの三冠を祝うことができなかったジャン・リュック・サスース

 今季のフランスサッカーは国内ではパリサンジェルマンの三冠、欧州ではチャンピオンズリーグでパリサンジェルマンとモナコがベスト8という結果になった。チャンピオンズリーグではパリサンジェルマンもモナコも準々決勝で敗れたが、両チームを破ったバルセロナ(スペイン)とユベントス(イタリア)が決勝戦に残り、欧州の頂点までそう遠くないところにいることを認識したシーズンとなった。
 パリサンジェルマンはフランスサッカー史上初の国内三冠を達成し、パリサンジェルマンの強さが際立つシーズンとなった。多くのOBがこの快挙を祝福したが、残念なことにその輪に加われなかった元選手がいる。それが今回紹介するジャン・リュック・サスースである。

■パリサンジェルマン在籍2年間にカップとリーグで優勝、代表戦出場

 本連載でもサスースの名前は一度しか登場したことがなく、本連載の熱心な読者の方であってもご存じないであろう。1980年代から1990年代にかけて活躍したDFであり、パリサンジェルマンにも1992年から1994年までの2シーズン所属している。1980年代後半からのフランスサッカー界はベルナール・タピ会長が大型補強をしたマルセイユの独壇場であった。リーグ戦では5連覇を飾る。しかし、その最後のリーグ優勝のシーズン、すなわち1993年春に起こったバランシエンヌ戦での八百長事件でマルセイユの栄光に陰りが見えた。そしてマルセイユに代わって1994年にリーグチャンピオンとなったのがパリサンジェルマンであった。パリサンジェルマンにとって2度目のリーグ制覇となったわけであるがこの時の優勝メンバーの一員がサスースである。
 パリサンジェルマンは創立が1970年代初めという若いクラブであるが、パリ財界のバックアップもあり、1990年代初めにビッグクラブ宣言を行い、ボスマン判決以前の制約のある中で大型補強を行い、その前年にはフランスカップを獲得している。ナントを文字通りシャットアウトして3-0と完勝した時のメンバーにもサスースは名を連ねている。
 当時はまだリーグカップが現行のような方式では存在していなかったため、国内タイトルはリーグとカップの2つだけであったが、サスースは在籍2年で2つのタイトルを獲得したわけである。
 また、サスースはパリサンジェルマン在籍中に代表入りし、1992年10月14日にパリサンジェルマンの本拠地でもあるパルク・デ・プランスで行われたワールドカップ予選のオーストリア戦で先発出場し、代表デビューを果たしている。

■グランゼコール出身のインテリプレーヤー

 この時話題になったのが30歳を過ぎてからの代表デビューということに加えて、グランゼコール出身として初めてのフランス代表選手ということである。1962年生まれのサスースは1979年にトゥールーズと契約、サッカー選手であると同時にトゥールーズの化学技術専門学校というグランゼコールに在籍し、1982年にはメキシコで行われたユニバシアードにも参加し、最優秀選手の候補となっている。1984年にプロ契約、そして1985年に卒業して学位を取得している。
 1986年からはカンヌに所属し、ジネディーヌ・ジダンとチームメイトであった。パリサンジェルマンでの2年は上記のとおり、その後、リヨン、サンテチエンヌに所属し、1998年に現役を引退している。
 引退後は下部リーグのチームの監督や、トゥールーズでエリック・モンバエルツ監督(現在横浜Fマリノス監督)のアシスタントを務めたこともある。

■52歳の若さで心臓発作、パルク・デ・プランスとジョフロワ・ギシャールで追悼

 サスースにとって選手生活のハイライトはパリでの2年間であったであろう。そのパリサンジェルマンがリーグカップを獲得し、リーグ優勝を決めた翌週の5月22日、トゥールーズの自宅で心臓発作を起こし、52歳という若さで帰らぬ人となった。
 その翌日に行われたリーグ最終戦、パリサンジェルマンはホームゲームで試合前に1分間の黙祷を行い、サンテチエンヌは1分間の拍手を送った。第1864回の本連載で紹介した通り、両チームとも最終戦を白星で飾り、パリサンジェルマンはその翌週のフランスカップ決勝でも勝利する。
 文武両道のフットボーラ―、ジャン・リュック・サスースに改めて追悼の意を表したい。(この項、終わり)

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