第2324回 追悼、アンリ・ミッシェル(1) ナントの黄金期を築いたレジェンド

 7年前の東日本大震災、一昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■ナントで2回得点王に輝いたバヒッド・ハリルホジッチ

 本連載第2319回で紹介したフランスカップ史上初のナショナルリーグ勢同士の準決勝のレゼルビエ-シャンブリー戦はナントのボージョワール競技場で行われた。ナショナルリーグ勢同士の試合としては史上最多の34,653人の観衆が集まったが、このボージョワール競技場はナントの本拠地である。タイトルから離れて久しい名門カナリア軍団であるが、かつてこのナントを沸かせた選手が2人いる。
 まず1人はバヒッド・ハリルホジッチである。1981年から1986年までの5シーズン在籍し、リーグ優勝を果たした1982-83シーズンとリーグ2位となった1984-85シーズンの2回、リーグの得点王に輝いている。ナントに所属する前はユーゴスラビアのクラブチーム、ナントを去ってからはパリサンジェルマンでプレーしたが、全盛期をナントで過ごした。このたび日本代表監督を解任されたが、ナントのファンにとっては忘れられないゴールゲッターであり、代表監督からの解任を残念に思っているであろう。

■ナントの黄金時代とアンリ・ミッシェル

 そして、ナントのファンにとってはもう1人忘れられない選手がいる。それがアンリ・ミッシェルである。南仏のエクス・アン・プロバンス出身のミッシェルは1966年に18歳でナントとプロ契約を結ぶ。それ以降、ナント一筋で選手生活を送った。ちょうどハリルホジッチが加入した1981-82シーズンが現役最後のシーズンとなるが、リーグでは優勝3回、2位5回と在籍したシーズンの半分のシーズンで2位以内を記録している。フランスカップでは1970年と1973年に決勝で敗れたが、三度目の挑戦となる1979年にはオセールを延長戦の末に破って優勝し、翌季のカップウィナーズカップでは準決勝に進出している。これらのタイトルとは別にナントはいまだ破られていない記録を持っている。それが1976年5月15日から1981年4月7日まで、ホームゲームで92試合負けなしというものである。ミッシェルがナントの黄金時代を支えたと言えるであろう。在籍16年間でリーグ戦には532試合に出場、これはジャン・ポール・ベルトラン・デマンと並んでクラブの最多出場記録である。ミッシェルは守備的MFを務めながら、16シーズンでリーグ戦で81得点を記録している。キャプテンシーに優れ、まさに中盤のパトロンであった。晩年には守備位置を下げてマキシム・ボッシ、パトリス・リオらを率いる形でリベロを務めた。プレースタイル、キャプテンシーに関してはドイツのフランツ・ベッケンバウアーとの類似を指摘する識者も少なくない。

■ミッシェルの引退後に完成したボージョワール競技場

 ミッシェルの率いるナントが数々のタイトルを獲得した時の本拠地はマルセル・ソーパン競技場であったが、1984年にボージョワール競技場が完成し、同年の欧州選手権、1998年のワールドカップを開催する。クロアチア戦が行われたことから日本の皆様はよくご存じのスタジアムであろう。ミッシェル自身はこの競技場ではプレーしなかったが、ナントのレジェンドと言えるミッシェルの存在なしにはこの近代的な競技場は建設されなかったであろう。

■ミッシェル・プラティニ、ジネディーヌ・ジダンに続く背番号10の源流

 そして、代表での活動も紹介しておこう。フランス代表にはプロ2年目の1967年から加わっている。最初で最後の大舞台は1978年のアルゼンチンでのワールドカップである。フランスは一次リーグでアルゼンチン、イタリアに敗れて二次リーグ進出を阻まれるが、この時の中盤を形成したのが背番号10のミッシェル、背番号15のミッシェル・プラティニ、背番号12のアラン・ジレスであった。背番号10はフランスサッカーにとって特別な番号であるが、ミッシェルから始まり、プラティニ、ジネディーヌ・ジダンと受け継がれ、まさにミッシェルこそ背番号10の源流なのである。
 このファンに愛されたミッシェルが4月24日、70歳の生涯を閉じた。次回以降は引退後のミッシェルの活躍について紹介しよう。(続く)

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