第2325回 追悼、アンリ・ミッシェル(2) ロスアンゼルスオリンピックの優勝監督

 7年前の東日本大震災、一昨年の平成28年熊本地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■1984年のロスアンゼルス大会から変わったオリンピックのサッカー

 ナントの黄金時代を築いたアンリ・ミッシェルであるが、現役引退後は指導者として新たな人生を切り開いた。1982年に現役を引退し、フランスのオリンピック代表の監督に就任した。目標とするのは1984年のロスアンゼルスオリンピックであるが、このロスアンゼルス大会のサッカー競技は特別な意味があった。この大会からサッカー競技に関してはプロの参加が条件付きで容認されるようになった。それまでは東側諸国のステートアマが参加し、1952年から1980年まで東欧勢が優勝していたが、欧州と南米に関してはワールドカップの本大会または予選に出場していなければ、プロでもオリンピックに参加できるようになったのである。西側諸国にとってはプロの参加、ステートアマの不参加ということで大きなチャンスが広がった。

■引退前からオリンピックチームの監督を打診

 このオリンピックに向けた取り組みと同様にフランスは女子サッカーの強化にも力を入れ始めた。フランス協会はミッシェルの引退前年にフェルナン・サストル会長と当時のミッシェル・イダルゴ代表監督がナントを訪れ、オリンピックチームと女子代表チームの監督就任を打診する。ミッシェルの回答はオリンピックチームの監督のみ受諾するということで、オリンピックチームの監督に就任したのである。

■決勝でブラジルを破って初優勝

 フランスのメンバーは後に代表チームでも活躍するウィリアム・アヤシュ、ギ・ラコンブ、ダニエル・ゼレ、ジョゼ・トゥーレなど20代前半の選手が中心であった。グループリーグは東海岸で行われ、第1戦はカタールに逆転されたが、追いつきドローで勝ち点1を獲得する。第2戦のノルウェー戦で勝利、第3戦のチリ戦で引き分け、グループリーグを首位で突破する。西海岸での決勝トーナメントに入り、ゼレの2得点でエジプトに勝利し、準決勝はユーゴスラビアと対戦する。この大会はソ連、チェコスロバキア、東ドイツという東欧勢が次々とボイコットしたが、ユーゴスラビアは出場、結果的には一番タフな試合となった。後に日本の名古屋グランパスエイトでも活躍するドラガン・ストイコビッチなどを擁し、東欧のブラジルと呼ばれるタレント軍団との戦いは延長戦になり、ラコンブ、ゼレのゴールで4-2と勝ち越し、決勝に進出した。
 決勝の相手はブラジルである。サッカー大国のブラジルはこれまたのちに日本で活躍するドゥンガを中心とするチームであった。10万人を超える観衆の集まったパサディナのローズボウルでの試合、フランスの先制点はオリンピック出場を決めたベルギー戦でデビューしたフランソワ・ブリッソンが先制点をあげる。ブリッソンはその才能をミッシェルに見いだされ、すでにフル代表にもデビューしていたが、ワールドカップの本予選には出場していなかった。そして追加点はゼレである。ゼレもフル代表の経験があったが、オリンピック予選では予選のスペイン戦で終了2分前に決勝点を決め、本大会出場を決めたベルギー戦では2得点をあげている。すでにフル代表に入りながら、オリンピックを照準にした選手起用でフランスは金メダルを獲得する。1900年のロンドンオリンピックの銀メダル以来のメダル獲得となったのである。

■フランスサッカー栄光の1984年、代表監督に就任

 この1984年はフランスのサッカーについては輝かしい栄光の年であった。トゥーロン国際大会で7年ぶりに優勝し、オリンピックが開幕する1週間前には自国開催の欧州選手権で優勝している。オリンピックと欧州選手権は同年に開催されているが、二冠を達成したのはこの年のフランスだけである。
 ミッシェルはフル代表の合宿にも帯同しており、欧州選手権で優勝したイダルゴは勇退、その後任としてミッシェルが任命され、弱冠36歳でフランス代表の監督となった。そしてここからミッシェルの人生は予期せぬ方向に流れていくのである。(続く)

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