第2661回 追悼、ミッシェル・イダルゴ (19) 人材を残して87歳の人生に幕

 平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、昨年の台風15号、19号などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■熟成したメンバーで戦った1984年欧州選手権

 前回の本連載では1984年の欧州選手権から1990年のワールドカップ予選までフランスのゴールを守り続けたジョエル・バツを紹介した。バツは1983年に代表にデビューし、ミッシェル・イダルゴ監督の最後の国際大会での優勝に貢献した。1982年のワールドカップスペイン大会以降にイダルゴ監督に見いだされ、その後もフランス代表として活躍した最後のイダルゴ世代としてバツのオセールでのチームメイトであったジャン・マルク・フェレーリ、イボン・ルルー、ルイ・フェルナンデスくらいである。彼らは1950年代末から1960年代初めに生まれているが、この世代のレベルが低かったわけではなく、1982年のスペインワールドカップまでに代表に招集した選手でチームが構成されていたこと、そしてこの世代の選手もマニュエル・アモロスやブルーノ・ベローヌのように20代になったばかりで代表入りしていたといえる。そういう熟成したメンバーで戦った欧州選手権で優勝したのは当然ともいえるであろう。

■多様なルーツを持つ選手を起用、重用した初の代表監督

 イダルゴ監督は数々のタレントを発掘したことはこれまでの本連載で紹介してきたとおりであるが、忘れてはならないのはフランス以外をルーツとする選手を多数起用し、さらに彼らを重用したことである。
 イタリアを出自とするミッシェル・プラティニはチームの中心となった。アモロスとフェルナンデスはスペインの血を引いている。ジャン・ティガナはマリの出身であり、ジャック・ジマコはニューカレドニア出身として最初にフランス代表入りしている。また、マリウス・トレゾールはグアドループ出身であり、フランス本土以外の出身者として初めてフランス代表の主将を務めている。
 フランス以外を出自とするフランス代表というと1998年のワールドカップで優勝したエメ・ジャッケ監督のチームを連想される方が多いかもしれないが、その20年前のイダルゴ監督の代表チームも多様な出自を持つ選手の集団であり、グラウンド上のリーダーである主将はトレゾールやプラティニが務めたのである。なお、プラティニが引退した後はアモロスがその大役を担ったのである。このように出自にこだわらずに選手を起用したのはイダルゴ自身の父親がスペイン人であった(母親はフランス人)ことが影響しているであろう。

■栄光の翌年、ヘイゼルの悲劇に立ち会う

 イダルゴは欧州選手権後は代表監督の座をアンリ・ミッシェルに譲り、1986年のワールドカップでは3位に入るが、その後は欧州選手権、ワールドカップ予選で苦戦し、プラティニが代表監督となり、1992年の欧州選手権の本大会出場を導く。
 イダルゴは代表監督を辞した後はテクニカルディレクターを務めていたが、その時に一生忘れることのできない現場に立ち会わせる。1985年5月29日、チャンピオンズカップ決勝のユベントス(イタリア)-リバプール(イングランド)戦である。ベルギーのブリュッセル、ヘイゼル競技場での試合、教え子のプラティニの出場する試合のテレビ解説者として現地にいた。試合開始前に両チームのサポーターが衝突し、39人の犠牲者を出す大惨事となった。キックオフを1時間30分遅らせて試合は行われ、プラティニが唯一の得点をあげて、ユベントスが優勝したが、イダルゴにとっては忘れられない辛い思い出となった。

■欧州選手権のメンバーがマルセイユにお見舞い

 それから、35年、イダルゴはマルセイユで病気療養中であったが、プラティニをはじめとする1984年の欧州選手権のメンバー10数人が2月12日にお見舞いに訪れた。  現在でもサッカー界の要職についているメンバーが多いが、プラティニ、ベローヌをはじめとし、ナントからはマキシム・ボッシが、トゥールーズからはアラン・ジレスが駆け付けた。また、ベローヌは自動車でクリスチャン・ロペス、フェルナンデスを乗せてマルセイユに向かった。
 お見舞いの後に、代表してプラティニとベローヌが模様を伝え、イダルゴとともに語った3時間半は非常に感動的な時間であり、かつての欧州王者たちはイダルゴを父親のようにいたわり、イダルゴも大きく感動したという。
 その翌月、87歳の誕生日を迎えた4日後の3月26日にイダルゴは天寿を全うする。多くの人材を残したという点でフランスサッカーへの貢献は計り知れない。(この項、終わり)

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