第3161回 追悼 ジュスト・フォンテーヌ (2) あまりにも短かったフランス代表での活躍の期間

 平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、台風15号、19号、令和2年7月豪雨などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■ワールドカップには1回しか出場しなかったジュスト・フォンテーヌ

 3月1日に89歳でその生涯を閉じたジュスト・フォンテーヌは1958年にスウェーデンで行われたワールドカップで6試合に出場、すべての試合で得点を決め、13得点をあげている。1大会の記録としては最多であり、2位は1954年大会のハンガリーのシャーンドル・コチシュの11点(5試合)、3位は1970年大会の西ドイツのゲルト・ミューラーの10得点(6試合)である。通算得点ではトップは4大会に出場したドイツのミロスラフ・クローゼの16点、2位は3大会に出場したブラジルのロナウドの15点、3位は1974年大会にも出場したミューラーが14点をあげ、フォンテーヌは5大会に出場したリオネル・メッシと並んで4位である。通算得点ランキングの上位15人のうち、1大会しか出場していないのはフォンテーヌと8位のコチシュだけである。
 フォンテーヌは1954年大会の予選で代表にデビューしたが、当時20歳のフォンテーヌは本大会のメンバーには入っていない。1962年大会はフランスは予選落ちしているが、フォンテーヌは予選1試合に出場しただけで、これが最後の代表での試合となった。また、1960年には第1回の欧州選手権が開催されているが、これも予選に1試合出場しただけで、フランスで行われた本大会(準決勝、決勝、3位決定戦)には出場していない。

■ワールドカップスウェーデン大会前は控え選手

 また、13得点をあげたワールドカップスウェーデン大会の予選にも出場していなかった。フォンテーヌは生涯で代表の試合には21試合に出場し、30得点をあげているが、このうち6試合13得点がスウェーデンでの記録である。フォンテーヌはスウェーデンでのワールドカップを迎えるまでは控え選手の位置づけであった。当時のフランスのフォワードにはタデー・シソウスキー、レイモン・コパ、ロジェ・ピアントニなどがおり、フォンテーヌの登場の機会は限定され、予選には出場しなかった。さらにワールドカップイヤーを前に1957年12月には手術を行う。ワールドカップは絶望と思われていたが、2月に復帰する。そして逆にシソウスキーが負傷したため、フォンテーヌは4月と6月に行われた親善試合にいずれも出場し、ワールドカップのメンバーに選出されたのである。

■フォンテーヌを支えたスタッド・ド・ランスのチームメイト

 ワールドカップスウェーデン大会で初戦でハットトリックをあげた以降の活躍は前回の本連載で紹介した通りである。そしてこの活躍は監督のアルベール・バトーやピアントニなどの主力選手の多くがフォンテーヌと同じスタッド・ド・ランスに所属し、当時はスペインのレアル・マドリッドの選手だったコパもスタッド・ド・ランスに所属し、フォンテーヌとはチームメイトであった。このようなスタッド・ド・ランスの人脈がフォンテーヌの13ゴールを演出したのである。

■負傷が多く、28歳で引退したフォンテーヌ

 一方、負傷が多かったということも事実である。1959年11月のポルトガル戦、12月のオーストリア戦では連続してハットトリックの活躍、続くスペイン戦、年が明けて3月に行われたチリ戦でも得点をあげ、欧州選手権への期待を膨らませた。しかし、チリ戦の4日後に行われたリーグ戦で選手生命の短縮を余儀なくされる負傷をする。フォンテーヌを欠くフランスは欧州選手権の準決勝でユーゴスラビアに敗れ、チェコスロバキアとの3位決定戦でも敗れ、最下位となる。
 ようやく1960年の終わりに現役復帰し、12月にはワールドカップチリ大会の予選のブルガリア戦に出場したが、1961年1月1日に行われたリーグ戦のリモージュ戦で再び負傷した。この日は本連載第3131回で紹介した通り、今年に至るまで最後に1月1日にリーグ戦が行われた日であるが、オールドファンにとってはフォンテーヌが選手生命を奪われた日として忘れてはならない日なのである。フォンテーヌのいないフランスは1962年のワールドカップには出場することができず、フォンテーヌはわずか28歳で現役生活を引退したのである。(続く)

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