第3162回 追悼 ジュスト・フォンテーヌ (3) スタッド・ド・ランスに移籍し、黄金期を築く

 平成23年の東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、台風15号、19号、令和2年7月豪雨などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■フランス領モロッコ生まれ、ニースに移籍する

 これまで2回の本連載ではジュスト・フォンテーヌのフランス代表での活躍について紹介してきたが、今回からはフォンテーヌのクラブでの活躍を紹介しよう。 フォンテーヌは1933年にモロッコのマラケッシュで生まれた。当時のモロッコはフランスの保護領であった。長い歴史を誇るモロッコであるが1912年から1956年まではフランスに支配されていた。モロッコにはフランスに支配されるだけではなくスペイン、英国からも侵略を受けており、フォンテーヌはフランス人の父とスペイン人の母の間に生まれた。本連載第3117回でも取り上げたラルビ・ベンバレクが子供の頃のフォンテーヌのあこがれであった。カサブランカを本拠地とするUSモロッコでプロデビュー、独立前のモロッコ選抜チームにも入り、北アフリカカップでも優勝している。 この名手は1953年、20歳の時に地中海を渡り、ニースに移籍した。そしてこの時期にフランス代表にもデビューしている。ニースではリーグとフランスカップでそれぞれ1回ずつ優勝している。

■スタッド・ド・ランスの移籍初年に二冠を獲得、ワールドカップで活躍

 この逸材が当時のフランスナンバーワンチームであるスタッド・ド・ランスに移籍したのはレイモン・コパがスペインのレアル・マドリッドに移籍することが決まったからである。1956年にコパと入れ替わるようにスタッド・ド・ランスに加わったフォンテーヌはゴールを量産する。1957-58シーズンにはリーグとカップの二冠を獲得し、スウェーデンでのワールドカップの活躍につながったのである。

■第1回のチャンピオンズカップ決勝でレアル・マドリッドに敗れたスタッド・ド・ランス

 そして、この時期にスタッド・ド・ランスに所属していたフォンテーヌはフランスのサッカーの歴史を作った。代表チームの国際大会は1930年にワールドカップが始まっていたが、クラブチームの国際大会は限定的であった。1955年にUEFAの公式戦として始まったのが現在のチャンピオンズリーグの前身となるチャンピオンズカップであった。当時は各国のリーグチャンピオンのみのわずか16チームだけが出場できる大会であり、フランス代表のスタッド・ド・ランスは決勝でレアル・マドリッドに3-4と敗れ、その後2シーズン、スタッド・ド・ランスはリーグ優勝から離れる。

■フォンテーヌの活躍でチャンピオンズカップ決勝に2回目の進出

 フォンテーヌなどワールドカップメンバーで固めた1957-58シーズンはリーグとカップの二冠を獲得、1958-59シーズンのチャンピオンズカップに2回目の出場を果たす。そしてスウェーデンで活躍したばかりのフォンテーヌでは人生2回目の国際大会でも大活躍をする。予備戦の相手は北アイルランドのアーズ、アウエーの第1戦でフォンテーヌが4得点をあげ、4-1と先勝する。ホームの第2戦でもフォンテーヌは2点をあげ、6-2と勝利し、1回戦(ベスト8決定戦)に進む。 1回戦の相手はフィンランドのヘルシンキ球技クラブ、2試合とも勝利し、フォンテーヌはアウエーの第2戦で2得点をあげた。準々決勝のスタンダード・リエージュ戦、アウエーの第1戦でスタッド・ド・ランスは0-2と完封負けするが、ホームの第2戦でフォンテーヌが2点をあげ、3-2と勝利し、準決勝進出を決めた。  準決勝のスイスのヤングボーイズ戦、フォンテーヌは2試合とも無得点におさえられたが、1勝1敗、通算スコア3-1で決勝に進出した。  決勝の相手はレアル・マドリッド、4年前と同じ顔合わせである。ただし、レアル・マドリッドは第1回大会から第3回大会まで3連覇を果たしている。4年前はパリのパルク・デ・プランスで争われたが、今回は西ドイツのシュツットガルトのネッカーシュダディオンである。そして4年前はスタッド・ド・ランスのユニフォームを着ていたレイモン・コパはレアル・マドリッドの選手となり、スタッド・ド・ランスにはフォンテーヌが加わった。8万人の観衆の前で試合が始まったのである。(続く)

このページのTOPへ