第744回 2007年ツール・ド・フランス(6) 揺れた終盤、アルベルト・コンタドールの見事な優勝

■休息日の前日のステージを制したミカエル・ラスムッセンとアレクサンドル・ヴィノクロフ

 例年通り今年のツール・ド・フランスも途中に2回の休息日がある。フランスを時計回りに周回する今年の場合、1回目の休息日はティーニュに登り切った第8ステージの翌日である。そしてピレネーの山岳コースの半ばの第15ステージの翌日に2回目の休息日が与えられる。いずれも山岳コースで厳しい道中の中で休息日を迎えるが選手スタッフにとってはリフレッシュするチャンスである。また、好成績で休息日を迎えることはその次のステージにつながっていく。
 今年の場合、最初の休息日の前日の第8ステージで優勝を果たしたのは、トップに躍り出たデンマークのミカエル・ラスムッセンである。ラスムッセンは中盤戦も首位を譲ることなく、2回目の休息日を迎えた。
 そして2回目の休息日の前日にあたる23日の第15ステージを制したのは優勝候補であるカザフスタンのアレクサンドル・ヴィノクロフである。第15ステージを終了した時点でのヴィノクロフは、トップのラスムッセンと28分21秒差の23位である。第5ステージでの転倒が響き、この順位にとどまっているが、不気味な存在である。
 この2人が終盤戦、そして優勝争いの中心として最後の5日間、ファンの注目を集めた。ところがこの2人はシャンゼリゼに姿を現すことなく、ファンだけでなく、全世界の人々を失望させたのである。

■ヴィノクロフ、ドーピング検査陽性で撤退

 ヴィノクロフは21日に行われた第13ステージで今大会初めてのステージ優勝を飾った。このステージはアルビでのタイムトライアルであったが、第13ステージの終了後のドーピング検査で陽性の反応が出たことが、休息日の24日に明らかになった。このドーピング検査の結果を受けてヴィノクロフの所属するアスタナはチーム全体としてツール・ド・フランスから撤退してしまったのである。
 ヴィノクロフがツール・ド・フランスを去った翌日の25日にはイタリアのクリスチャン・モレーニがドーピングで陽性反応し、所属チームのコフィディスも撤退してしまう。

■マイヨー・ジョーヌのラスムッセン、チームから追放

 ここにきて突如揺れ始めた終盤戦の最初の第16ステージはピレネーの山岳コースの最終日であり、4つの峠を登る難コースである。この第16ステージを制したのは総合首位のラスムッセンであった。ラスムッセンは2位との差を3分10秒と広げ、一気に調子の波に乗ってシャンゼリゼのゴールへ突き進む勢いである。これでラスムッセンは10日間連続してマイヨー・ジョーヌをキープすることになろうと思われた。しかしながら、所属チームのラボバンクは、ラスムッセンを大会から追放することをステージ優勝を飾った日に発表した。大会前の6月の自らの滞在地について虚偽の報告をチームにしており、チームの規律違反を理由として追放されたのである。ラスムッセンは大会前の18か月間に行われる4回のドーピング検査を回避したことが非難されていたが、参戦し、栄光まであと4日というところでチームから追放されたのである。
 昨年のツール・ド・フランスはドーピングに揺れ、残念な年であったが、今年はフランス人選手の優勝が不可能となった時点で事件が起こり、国外の有力選手を失った。

■総合優勝と新人賞を獲得したアルベルト・コンタドール

 ラスムッセンの代わりにマイヨー・ジョーヌを着ることになったのがスペインのアルベルト・コンタドールである。24歳の新星は第14ステージで優勝し、2位にあがる。そしてラスムッセンに次ぐ2位の座をキープし、残り4ステージとなったポーのスタート地点でマイヨー・ジョーヌを着用する。コンタドールは首位をキープし、最終ステージを迎える段階では2位の豪州のカデル・エバンスに23秒差に詰め寄られるが、シャンゼリゼのゴールをトップで走り抜け、初優勝を飾ったのである。新人賞(最も良い成績の25歳以下の選手)に与えられるマイヨー・ブランと総合優勝のマイヨー・ジョーヌの2つのジャージーをコンタドールは獲得したが、これはローラン・フィニョン(1983年)、ヤン・ウルリッヒ(1997年)に続く史上3度目の偉業である。コンタドールの優勝タイムは91時間00分26秒であったが、ゴールでの2位エバンスとの差はわずかに23秒であった。これは伝説となっている1989年の8秒差(1位グレッグ・レモン、2位ローラン・フィニョン)に次ぐ2番目の僅差での優勝であった。
 このようにコンタドールがすばらしい優勝を遂げただけに、終盤の事件は残念であった。(この項、終わり)

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