第1735回 回顧・ワールドカップブラジル大会(6) フランスで選手、監督として活躍したバヒド・ハリルホジッチ

 3年前の3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■ボスニア・ヘルツェゴビナ出身のバヒド・ハリルホジッチ

 前回の本連載ではフランス以外の代表チームの監督について唯一のフランス人であったコートジボワールのサブリ・ラムシ監督とかつてパリサンジェルマンで活躍したボスニア・ヘルツェゴビナのサフェット・スシッチ監督を紹介したが、フランスにゆかりのある監督はまだいる。
 スシッチは1982年から1991年の9季にわたりパリサンジェルマンに在籍し、魔術師の愛称で活躍したが、この同時期にフランスで活躍したのがアルジェリアのバヒド・ハリルホジッチ監督である。ハリルホジッチもスシッチと同じボスニア・ヘルツェゴビナ出身(当時はユーゴスラビア)である。
 ハリルホジッチはユーゴのクラブチームから1981年にナントに移籍する。スシッチよりも1年早くフランスに渡ってきた。当時の東欧からは西欧への選手の移籍は限定的であり、ユーゴスラビアは比較的緩やかであったとはいえ、ハリルホジッチの移籍がスシッチに何らかの影響を与えたであろう。ナントは当時5季連続でリーグでは2位以内という強豪であった。移籍初年こそ個人的にもチームとしても不本意な結果であったが、2年目はナントは優勝を果たし、ハリルホジッチは27ゴールで得点王に輝く。ナント在籍の5季で96得点をあげ、老齢の家族の面倒を見るため、1986年にユーゴスラビアに帰国しようとする。しかし、パリサンジェルマンが獲得し、現役最後のシーズンをスシッチとともにプレーする。

■リールでは1部昇格、パリサンジェルマンではフランスカップ獲得

 ハリルホジッチは現役引退後にボスニア・ヘルツェゴビナに戻り、サッカーと離れたが、ここでユーゴスラビア内戦がハリルホジッチと家族を襲い、フランスへ逃げる。フランスでは2部のボーベの監督になり、リール、レンヌ、パリサンジェルマンの監督を務める。リールでは1部昇格を果たし、チャンピオンズリーグ出場も果たす。パリサンジェルマンでは2004年にフランスカップ優勝、リーグ2位となる。
 コートジボワール代表の監督を経てハリルホジッチが旧ユーゴスラビアに戻ってきたのは2010年、クロアチアのディナモ・ザグレブの監督となる。ハリルホジッチは2011年にクロアチアリーグで優勝した直後にアルジェリア代表の監督となったのである。アフリカ選手権は2012年大会は予選落ちしたが、2013年大会は本大会出場を果たす。そして今回のワールドカップは予選を勝ち抜いただけではなく、グループリーグではベルギーに次いで2位に入り、初の決勝トーナメント進出、そして1回戦ではドイツと今大会屈指の熱戦を演じたのである。
 ボスニア・ヘルツェゴビナのスシッチとハリルホジッチはフランスで選手としてだけではなく監督としても活躍したが、この2人以外にフランスのクラブで活躍した監督が3人いる。

■ストラスブールのステファン・ケシ、ボルドーのマルク・ビルモッツ

 まず、ナイジェリアのステファン・ケシである。ナイジェリア人のケシは様々な国のクラブに所属したが、1991年から1993年まで2季ストラスブールに所属している。1年目は2部であったが、2位に入り、2年目の1992-93シーズンは1部でプレーし、2位に入っている。現役引退後はナイジェリア代表のスタッフを経て、トーゴ、マリの代表監督を経て2011年にナイジェリアの監督となる。2013年のアフリカ選手権で優勝し、選手並びに監督として優勝したのは2人目である。
 そしてベルギーのマルク・ビルモッツ監督もフランスでのプレー経験がある。ベルギー人のビルモッツは2002年のワールドカップでは主将として日本と戦っているので日本の皆様もよくご存じであろう。2000-01の1シーズン、ボルドーに所属している。

■モナコでゴールを量産したユルゲン・クリンスマン

 そして選手としてワールドカップ優勝を果たしたことがあるのがドイツ人で米国を率いたユルゲン・クリンスマン監督である。1990年大会で優勝した当時はイタリアのインテル・ミラノに所属していたが、1992年にジョルジュ・ウェアの抜けたモナコに移籍する。モナコでは2シーズン所属し、1年目は前年のウェアの18得点を上回る19得点をマークし、2年目には米国でのワールドカップに出場している。
 このように、7人の代表監督が選手あるいは監督として活躍したことのあるフランスのクラブ、シーズン開幕は8月の第2週である。(この項、終わり)

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