第2回 スタッド・ド・フランス建設に至る60年の物語

■フランス大会唯一の新設スタジアムがスタッド・ド・フランス

 世界各地で国際試合が行われた1998年1月28日、最も注目を集めたカードはフランス対スペインである。もちろん開催国フランスと前回のワールドカップ以来一度も負けていない「無敵艦隊スペイン」という対戦カードも魅力的である。しかし、4か月後に迫ったワールドカップ本大会の開幕戦と決勝が行われるスタッド・ド・フランスのオープニングゲームということこそ、世界中の注目を集めた理由であろう。
 日本でも4年後に開催されるワールドカップに向けて各地で競技場の建設や改修が予定されており、3月1日には横浜国際総合競技場がオープンした。これらの競技場とスタッド・ド・フランスを重ね合わせた人も多いのではないだろうか。
 フランス大会では10のスタジアムが使用されるが、スタッド・ド・フランス以外のスタジアムは既設のものであり、新設のスタジアムはスタッド・ド・フランスだけである。ワールドカップに向けてスタジアムが新設されるのは最近では極めて珍しいケースである。日本や韓国ではたくさんのスタジアムが建設されようとしているが、サッカー先進国との差を感じる。ワールドカップを前にオープンしたスタッド・ド・フランスではあるが、巨大なスタジアムの建設は、フランススポーツ界の60年以上の長きにわたる悲願であった。

■政治・経済状況と無縁でないスポーツ界の事情

 スポーツのビッグイベントとしてはワールドカップとオリンピックがまずあげられる。パリでの二度目のオリンピックは1924年、このときパリ市の西北の郊外に名門スポーツクラブであるラシンクラブにより60,000人収容のコロンブ競技場が造られた。フランスでのワールドカップの開催は第3回となる1938年。1936年9月に開催が決定したワールドカップに向けてフランス国内で議論がわき起こった。1936年のベルリン・オリンピックに影響されて、フランスでも10万人収容可能な大スタジアムが必要ではないかというナショナリストを中心とする意見である。当時の欧州の政治的緊張を考えれば理解できよう。
 当時のFIFA会長のフランス人のジュール・リメや国民戦線政権のスポーツ長官であったレオ・ラグランジェを巻き込んで、早速、候補地探しや建築家ルコルビジェなどによるデッサンがなされた。しかしながら、この大スタジアム計画は「わずか22人のエリートプレーヤーを見るために10万人の大衆が集まるための競技場を造ることよりも、わが国の青少年が日頃からグラウンドやプールに行ってスポーツに親しむことの方が重要である」というラグランジェの判断により、見送られた。1938年のワールドカップ決勝は55,000人を集めたコロンブ競技場でイタリアとハンガリーとの間で争われ、第二次大戦の戦火に欧州も巻き込まれていく。
 1946年5月にフランス対イングランドのサッカーの試合が58,481人の大観衆を集めてコロンブで行われた。これは当時の最多動員記録である。欧州に平和が訪れ、再び大スタジアム計画が国家的プロジェクトとして持ち上がる。マルセル・セルダン(フランスを代表するボクサー)の名を冠した新スタジアムの名称まで決まりながら、また計画は流れてしまう。
 1960年代になると1968年夏季オリンピックのパリ開催のために10万人収容の大スタジアム計画が持ち上がる。このときも建設予定地まで決まりながら、当時のシャルル・ド・ゴール大統領とジョルジュ・ポンピドー首相は計画を見送ってしまう。

■パルク・デ・プランスの登場

 1970年代に入ると大スタジアム計画は消えてしまう。なぜならば1972年にパリ市内にある自転車競技場のパルク・デ・プランスがスタジアムとして改装され、以後フランスのビッグゲームは48,000人収容ながら交通の便が良く、近代的なこの競技場で行われるようになったからである。
 25年以上フランスのサッカー、ラグビーのビッグゲームの舞台となったパルク・デ・プランスに代わる大スタジアムの必要性が出てきたのは、1980年代半ば以降になってフランスが二度目のワールドカップを開催する意向を示してからである。当時の首相兼パリ市長(フランスでは二つまでならば公職を兼務できる)であったジャック・シラク(現大統領)はサッカーファンでもあり、大スタジアム計画を推進し、1990年代になって動きは激しくなる。
 様々な政治家の思惑もあり、スタジアムの建設候補地は二転三転する。最初の有力候補はパリ南東約50キロのムーランセナー。しかし、1992年7月のワールドカップ開催決定直後にムーランセナーはミッシェル・サパン蔵相の意向もあり後退する。それに代わって浮上したのが保守の大物シャルル・パスクワ内相が県知事を兼任するパリ西北のオートセーヌ県のナンテール。
 92年12月にはピエール・ベレボゴワ首相がナンテールに決定と発表。しかしながら年が明けるとパルク・デ・プランスの改装案なども急浮上。6月には5年後に迫った本大会を前に決定の遅れているフランスに対し、FIFAのアベランジェ会長が決定を急ぐように勧告するが、サンドニ、マルヌラバレー、ロニースーボワなども候補に挙がり混沌としてきた。

■フランス・スポーツの歴史の深さに目を向けよう

 結局サンドニに決定したのは93年10月のことであった。
 94年夏にはスタジアム建設のコンペが行われ、10月に決定。翌95年5月に着工し、スタッド・ド・フランスという名称が決定したのは12月のことであった。
 パリの空の玄関口であるシャルル・ド・ゴール(ロワシー)空港とパリ市内との間にあるこのスタッド・ド・フランスの姿を、パリを訪れた多くの方が見ているであろう、そして6月から7月にかけてたくさんの日本人がここで試合を見ることになろう。そのとき、思い出していただきたい、このスタジアムはフランス・スポーツ界60年の悲願の賜物であると。そして前回のワールドカップの決勝の舞台となったコロンブにも交通の便は悪いが是非とも足を伸ばしていただきたい。
 パルク・デ・プランスの改装後、コロンブ競技場はラグビーのクラブチームしか使用せず、手入れも悪く現在ではようやく20,000人を収容する程度の廃墟に近い姿であり、かつてのオリンピックスタジアムとは思えない。しかし、1956年に最初の欧州チャンピオンズカップ(現在のチャンピオンズリーグ)の決勝が行われ、同年10月のフランス対ソ連戦で集めた観衆62,145人はスタッド・ド・フランスができるまでの代表チームの国内での最多観客動員記録である。なお、1969年のチャンピオンズカップの決勝、アヤックス対ベンフィカ戦では63,200人の観衆を集めた。ローマ、ウェンブリー、アステカ、ミュンヘン、ローズボウルとならんで世界でも数少ないワールドカップとオリンピックのメイン会場となったコロンブ競技場でフランスのスポーツの歴史の深さを感じていただきたい。

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