第33回 1998年フェアプレー大賞

■クリスマスに心暖まるフェアプレー賞を

 フランスの12月は寒く長い夜が続く。西岸海洋性気候のため、寒さのピークは12月であり、日照時間が最も短いのも12月である。しかし、その寒く暗い12月の心を暖かくしてくれるのがクリスマスのイルミネーションである。クリスマスのイルミネーションというとパリのシャンゼリゼ通りが有名であるが、どのような小さな町にも必ずイルミネーションがある。町に灯火がともると年の瀬を感じさせるのである。基本的に単色であるがデザインに趣向を凝らし、日本語では死語となった「電飾」という表現がふさわしい。この電飾は年末の人々の心をなごませてくれる。そして今回は心暖まる1998年フェアプレー大賞を取り上げたい。

■エマニュエル・プチのヒールキック

 まずフェアプレーというと、読者の方々の目に浮かび上がるのはワールドカップの準々決勝フランス-イタリア戦のエマニュエル・プチのプレーであろう。サンドニで行われたこの試合については本連載の17回でも取り上げたとおりであるが、今大会で唯一のスコアレスドローの末のPK戦となった試合である。試合はイタリアが伝統のカテナチオを久しぶりに披露する。球を回してもなかなかゴールに近づけないフランス、ストレスもたまってきた延長後半14分。右サイドで球をキープし、センタリングを狙っていたプチは突然ヒールキックでタッチにボールを出す。8万の観衆は騒然としたが、直前のプレーでゴール前に倒れていたイタリアのディビアッジオの姿を見て納得し、万雷の拍手を送る。そして試合はイタリアのスローインで再開される。
 プチはモナコ育ち、元々左サイドバックで、フランス代表歴最多を誇るマニュエル・アモロスの後継者として早くからその才能を見い出され、本大会出場を逃したイタリア・ワールドカップ直後の1990年8月15日のポーランド戦で代表にデビューした。今回の代表22人の中で彼よりも前に代表入りしていたのはローラン・ブランとディディエ・デシャンの2人だけであり、また、唯一10代で代表にデビューした選手である。
 しかしながら、その後代表の中心として活躍してきたブランやデシャンと比べ、プチは代表には定着できなかった。彼がフランスでは非主流派のモナコに所属していたこともその一因であろう。今回の代表入りもボーダーライン上からの選出であった。また大会が始まってからもフル出場はなく、それだけにイタリア戦では一旗揚げ、準決勝、決勝ではフィールドの中で勝利の喜びを味わいたかったであろう。そのような立場の選手が息詰まる攻防の中でヒールでボールをタッチに出した。プチの今までの道のりを熟知しているサンドニのファンは、心から拍手を送ったのである。この試合以降プチは決勝までフル出場することになる。

■チェザレ・マルディーニの粋なはからい

 しかし、この試合、あと2つフェアプレーがある。まず、敗者となったイタリア。チェザレ・マルディーニ監督は前回の雪辱をはらそうと入念に準備を行う。実際に主力選手は5月半ばまでリーグ戦等を戦うため、勝負は直前のキャンプである。他の主要国が次々とキャンプ地を決定していくのに比べイタリアは慎重であった。入念に候補地を調べ、2月に最終決定を下したのはパリ北東のサンリス。5部リーグに当たるアマチュア2部リーグに所属するUSMサンリスのスタジアムを借りることになった。マルディーニ監督はスタジアムに施錠をすること、また合い鍵を作られないように鍵を定期的に取り替えることを要求するという徹底ぶりであった。さらに下部リーグとはいっても上位リーグ同様に5月中旬まで試合が行われるが、イタリア側は芝の状態を保つためにクラブに対して5月に入ってからはグラウンドを使わないように申し入れた。
 タイトルを獲得するための徹底した態度はブラジルなど他の国も同様であったが、イタリアは決定的に違うところがあった。いいリズムを保って本大会入りするために、どの国も大会直前はかなり力に差があるチームと最後の調整試合を行う。ご存じの通り日本は2部リーグのグーニョンと戦い、ブラジルはアンドラ代表と試合?sい、入場料金を徴収した。しかし、イタリアは6月8日、調整試合の相手にUSMサンリスを選び、お世話になり、クラブの活動に制約を与えたということで、本来非公開であるこの試合にクラブの会員のみを招待したのである。

■エメ・ジャケの英断

 そしてもう一つのフェアプレーは勝者となったフランス。先述のプチのヒールキックの直後、試合はPK戦となる。このPK戦についてはイタリアリーグで癖を知られている選手を起用しなかったエメ・ジャケ監督の選択が評価されているが、実はこの試合は初めて黒人選手がフランス代表のPK戦のキッカーとなった試合である。
 フランスとPK戦というと、まずスペイン・ワールドカップ準決勝の西ドイツ戦が思い浮かぶ。ワールドカップ史上に残る死闘となったが、この試合で当時のフランス代表ミッシェル・イダルゴ監督はPK戦になったときフランス代表史上初の黒人主将のマリウス・トレゾールを起用すべきか否かためらいを感じた。
 黒人選手が初めてブルーのユニフォームを着たのはそう昔のことではない。また、トゾールに初めてキャプテンマークをつけさせたときに国内から批判が相次いだ。もしこのPK戦で黒人選手を起用し、失敗したら監督として自分は非難を浴びるのは必至である、という判断の基にイダルゴは結局トレゾールだけではなく他の黒人選手も起用しなかったのである。
 その後フランスは1986年のメキシコ・ワールドカップの準々決勝ブラジル戦、1996年の欧州選手権の準々決勝のオランダ戦、準決勝のチェコ戦でもPK戦を戦う。ジャケが指揮をとった欧州選手権でも黒人選手を起用しなかった。そして今回のイタリア戦、多くの選手がイタリア・リーグに所属しているという条件はあったものの、ジャケの起用したティエリー・アンリは代表のユニフォームを着てペナルティースポットに初めてボールをおいた黒人選手となったのである。
 大会前から選手起用に関しては相当の非難を浴びてきたジャケが、16年前のイダルゴの心中を察しないはずがない。しかしながら、彼は勇気と確信を持って選手を起用した。その結果が初優勝につながり、フランス国内の多民族の融和に寄与したことは間違いない。
 3つのフェアプレーのあったフランス-イタリア戦に1998年度フェアプレー大賞として心から拍手を送りたい。

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