第34回 「血と黄金」RCランスの年

■フェリックス・ボラールを燃え立たせた一戦

 長いワールドカップの歴史において、98フランス大会ではじめてゴールデンゴール方式が採用された。しかし、実際にこの新制度が適応されたのはわずかに2試合。まず、予選では1997年11月17日のマレーシア、ジョホールバル。そして本大会では決勝トーナメント1回戦のフランスvsパラグアイ戦。名手チラベルトを中心とする堅守のパラグアイを崩したのはローラン・ブランであった。本大会で唯一のゴールデンゴールが記録されたのはランスのフェリックス・ボラール・スタジアムである。このスタジアムが久しぶりに燃えた。
 12月9日、チャンピオンズリーグの予選リーグの最終戦が行われた。RCランスは奇しくも欧州選手権でもライバルとなるウクライナの名門ディナモキエフを迎える。6つに分かれたグループの首位と2位グループから2チームが決勝トーナメントに進出できる。ランスもキエフも最終戦を残して勝ち点は8でトップ。しかし、グループ2位となった場合は極めて可能性は低く、両チームとも是非とも勝ちたい大一番となった。

■スリリングな97/98シーズンを制したランス

 90年以上のクラブの歴史で初めてフランスリーグを制したランスは、まさに「強いのか弱いのかよくわからない」フランスサッカーの1998年を象徴するチームであった。21節を消化した年頭の段階ではランスは5位、しかも上位にはメッス、モナコ、マルセイユ、パリサンジェルマンといった強豪クラブが並んでおり、優勝は無理かと思われたが、その後勝ち点を伸ばし、30節には敵地で首位メッスとの直接対決で2-0の完封勝利。最終的に優勝はメッスとランスに絞られ、どちらが優勝しても初優勝という展開になり、5月9日の最終節を迎えた。
 最終節はスリリングな展開となった。勝ち点2差で追うメッス(得失点差+19)はリヨンとホームの戦い、首位ランス(得失点差+25)はアウエーでオセールとの戦い。引き分け以上なら優勝が濃厚なランスであったが、早くも13分にはサブリ・ラムーシとステファン・ギバルッシュのワンツーで先制される。28分にはオセールの代表の控えGKのリオネル・シャルボニエが負傷退場するというアクシデント、ランスは猛攻をかけるが、代わったファビアン・コールがスーパーセーブを連発。しかし、58分のヨアン・ラショーがフレデリック・デウのロングボールをゴールにたたき込んだとき、ランスに栄光がもたらされたのである。一方、メッスは開始早々にブルーノ・ロドリゲスがゴールを決めたが以後得点なく、勝ち点で並ぶも得失点差で及ばなかった。
 優勝どころか例年は優勝争いにすら加わらない両チームのフレッシュな争いは、ワールドカップを前にしたリーグ戦を大いに盛り上げた。

■聖地ウェンブリーで名門アーセナルを撃破

 しかしながら、この両チーム、今季はさっぱりの成績である。リーグ戦ではボルドーとマルセイユが激しいトップ争いをしてオールドファンを熱狂させる一方で、昨季優勝を争った両チームは下位を低迷している。また、欧州三大カップでもマルセイユ、ボルドー、リヨンという伝統チームがUEFAカップでベスト8入りしたのに、メッスはチャンピオンズリーグ予備戦で敗退。シードされたランスも引き分けが続き、マルセイユやボルドーのファンに「実力不足」と、冷たい目で見られた。
 しかし、そんなランスがブレイクしたのは11月25日のロンドン。伝統的にハイベリーを使っていたアーセナルが73,707人という大観衆のウェンブリーでホームゲームを行い、アルセーヌ・ベンゲル、エマニュエル・プチは母国のクラブを迎え撃つ。アーセナル主催のホームゲームで最多観衆を動員したこの試合で、なんとランスは1-0で勝利を収めてしまったのである。実は欧州三大カップで初めてフランスのクラブチームがロンドンで勝った試合でもあった。
 そして冒頭のキエフ戦、41,000人の大観衆の見守る中で前半は互角の戦いをしたが、後半はキエフの猛攻にあい、1-3と思わぬ大敗。結局ランスは予選落ちとなったが、この日もスタンドはチームカラーの赤と黄色に染まったのである。

■「血と黄金」がクラブの象徴に

 ベルギー国境に近い炭坑町はサッカー熱が高く、ランスも例外ではない。RCランXは1906年に地元のブルジョワ階級の商人の子弟たちによって創立された。実はこの年はフランスの炭坑史に残る「クーリエー事故」が起こり1,100人の犠牲者が出た年でもあった。炭鉱経営者は炭坑夫がこの事故を契機に連帯するのではないかと恐れ、炭坑夫たちが他のことに興味を持つよう考えた。この結論の一つがスポーツクラブであった。
 当時のサッカーは、労働者階級のスポーツとしてはまだボクシングや自転車競技に及ばなかったが、1914年から1918年にかけてフランス北部に大打撃を与えた第一次世界大戦がこのクラブとフランス・サッカーの歴史を変えた。第一次世界大戦後、都市と炭坑の復興のためにこの地域では大量の労働力が必要となった。当時のフランスはこの労働力を同じく戦渦に巻き込まれたポーランドに求めた。ポーランド人はサッカーを愛し、なんと1926年には30ものポーランド人のサッカーチームが存在し、そのほとんどはこの炭坑地区であった。(1950年代のフランス代表にポーランド移民が多いのはこのためである)
 ランスは1924年にチームカラーを赤と黄金に決定する。通常、フランスのクラブのチームカラーは都市の色であるが、ランスの場合は例外であり、これらの色は炭坑の象徴である。すなわち「炭坑事故で犠牲者となった炭坑夫の血」、そして「炭坑がもたらした富である黄金」であり、「血と黄金」というなんとも物騒な名前がこのクラブにはついている。

■クラブカラーにはスペインの影響も

 またこのチームカラーにはもう一つの由来がある。それはランスのあるアルトワ地方が1659年からスペインの支配下におかれ、教会の建築などもスペインの影響を受けたからである。クラブの幹部が戦争で廃墟となった教会の前を通ったときに思いつき、スペインの国旗をチームカラーとするように提案したという。
 スペインというと、ワールドカップのグループリーグ最終戦でブルガリア相手に大勝したが、予選落ちした。その最終戦の舞台がこのランスである。ランスのチームカラーと同じゴールデンゴールが初めて記録され、300年近く後のサッカーチームのチームカラーにも影響を与えた無敵艦隊が再び沈んだ町、ランス。「今年のサンタクロースは青い服を着ている」と言われた年に、三原色の残りの二色が見事に輝いていた光景は忘れられないものとなるであろう。

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