第4回 パリで勝てないフランス代表

■パルク・デ・プランスで起きた決定的な敗北

 ワールドカップまでのフランス代表のスケジュールを見てみると、スタッド・ド・フランスでもパルク・デ・プランスでも試合の予定は入っていない。また、ワールドカップの初戦の南アフリカ戦もマルセイユで行われる。フランスもドイツやイタリアのように代表のホームスタジアムを固定していないように思われる方も多いであろう。
 しかし、1972年にパルク・デ・プランスが球技場となってから、つい最近までフランス代表はホームゲームを主にパルク・デ・プランスで行ってきた。また、パルク・デ・プランスが球技場になるまでは第2回の連載で取り上げたコロンブを使ってきた。前回このコーナーでフランス代表がスタッド・ド・フランスをホームスタジアムにしないと書いたが、その理由を教えてほしいというメールがあったので、今回はその理由について取り上げよう。
 フランス代表が現在のように国内各都市でホームゲームを行うようになったのは1994年からのことである。勘のいい読者のことならばすでにお気づきであろう。アメリカ・ワールドカップの出場権を失って以来である。ご存じの方も多いかと思うが、フランス代表は残り2つのパルク・デ・プランスでのホームゲームのうちいずれか引き分ければ新大陸への切符を獲得できた。しかし、イスラエルとブルガリア相手にともにロスタイムに勝ち越し点を奪われ、イタリア・ワールドカップに続けて出場権を失った。
 ここまで書くと縁起をかついでパリでのホームゲームを避けたとお考えになる方も多いであろう。しかしそこは実存主義と科学の国フランス、予選敗退後、実に建設的な議論がなされた。

■パリ以外での戦績は、なんと18勝1敗1分

 まず、パルク・デ・プランス完成後のパリとそれ以外でのフランス代表の成績を比較した。1972年10月13日のソ連戦を皮切りに1993年11月17日のブルガリア戦までフランス代表が国内で行った88試合のうちパリで行った試合は68試合(うち1試合はコロンブ)である。この戦績は42勝11敗15分。勝ち点を勝ち=2点、引き分け=1点、負け=0点とすると1試合あたりの平均勝ち点は1.46点となる。
 一方、パリ以外では12都市で20試合が行われ、その戦績はなんと18勝1敗1分となり1試合あたりの平均勝ち点は1.85点となる。勝てなかったのは1982年6月2日にツールーズでウェールズに0-1で負けた試合と1992年6月5日にランスでオランダと1-1で引き分けた試合であり、いずれもスペイン・ワールドカップ、スウェーデンでの欧州選手権という本大会前の最後の調整試合である。(蛇足ではあるが、両方とも本大会を行う国に近い国内の主要都市であるということにもご注目いただきたい)
 フランス程度の成績を残している国にとってはパリ以外での成績がいいというより、むしろパリでの成績が悪すぎると評価できるであろう。

■パリの試合でマルセイユの選手がミスキックしようものなら・・・

 この理由についてまず考えられることは、パリで試合をするにも関わらず、パリのクラブ所属の選手が少数であるということである。地元選出の選手の多いスタジアムで試合をおこうなう方が有利であるが、この期間パリサンジェルマンの成績は上位ではあったが、優勝争いに常に顔を出す存在ではなかった。
 また、これは欧州独自の偏狭な地域主義が「有利ではない」という状況ではなく「不利である」という状況を招く。例えば、パリで行われるフランス代表の試合においてマルセイユの選手がミスキックでも起こそうものなら、スタジアムはブーイングと嘲笑の嵐となる。これは他の国においても同様であり、ACミラノやインターミラノのミラノ勢から代表入りする選手が多ければ代表はミラノで試合を行う機会が多くなり、ユベントスの成績が良くなればトリノで国際試合を行うようにするといったイタリアのようなフレキシビリティが必要であるという意見が出された。これに対し、イングランドのウェンブリーのように固定したスタジアムで国際試合を行う方が選手のモチベーションを高めることができる考え方もあったが、ロンドンには強力なチームが複数あり、一つしかプロチームのないパリとは事情が違うという意見に退けられた。
 しかしながら、パリ以外の都市での試合の成績が良かったのは地元選出の代表選手が多かったからではない。マルセイユのリーグ5連覇の間にマルセイユでは1試合も国際Aマッチが行われていない。モナコ、ナント、サンテチエンヌ、ボルドーといった強力なクラブのある都市だけで行われているわけではない。パリという特有の気質を持った都市において成績が悪いということに本質があり、この「パリ・シンドローム」については次回取り上げることとする。

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