第44回 ダビッド・ジノラと地雷廃絶キャンペーン

■「沈黙の悪魔」廃絶へ、世界的なムーブメント

 1997年8月31日深夜、セーヌ河岸でひとひらのバラが散った。“LADY D”ことダイアナ元王妃が悲劇の事故死を遂げ、英国だけではなく世界中が深い悲しみに包まれたことはまだ記憶に新しい。ダイアナ元王妃が地雷廃絶キャンペーンに情熱を注いでいたことは死後あらためてクローズアップされ、多くの人が感銘した。
 「沈黙の悪魔」といわれる地雷は世界の3分の1にあたる70か国に埋設されており、その数は1億1000万個と推定されている。埋設地雷の爆発で毎月2000人以上が死傷している。除去活動も行われているが、その数は年間10万個程度、逆に新たな埋設数は年間200万個と言われている。
 1997年1月にアンゴラの地雷原に自ら立って地雷廃絶を訴えたダイアナ元王妃の姿がその流れを変えた。同年5月のトニー・ブレア政権誕生後の英国の対人地雷政策を変更させ、世界的なうねりとなった。ダイアナ元王妃の死後間もない9月にはオスロに100か国以上の代表が集まり対人地雷の使用、生産、貯蔵などを禁止する対人地雷全面禁止条約を承認、同年12月には調印された。その後も地雷廃絶キャンペーンは続き、ついに本年3月1日にはオタワ条約として発効されたのである。

■ジノラの歴史は「移籍の歴史」

 “LADY D”という世界で最も有名な女性によって世界的なウェーブとなった地雷廃絶キャンペーンであるが、その後を受けて活動の中心となったのが今回紹介するダビッド・ジノラである。
 ダビッド・ジノラの歴史は移籍の歴史である。南仏生まれのジノラはユース時代にニースとプロ契約しようとしたが「体格的に恵まれていない」という理由でツーロンと契約。20才になるころにはすでにレギュラーポジションを獲得したが、クラブは経営難からやむなく放出。1988年に名門ラシン・パリの系譜を継ぐマトラ・ラシンに移る。マトラ・ラシンはマトラ社のオーナーのジャン・リュック・ラガルデールが経営に乗り出した「企業チーム」であり、大物選手を集め、ジノラ在籍の1989-1990にはフランスカップのファイナストとなったが、このシーズン限りで財政難からプロチームは解散してしまう。
 ジノラにとって新たな活躍の場は西の果てにあるブレスト。このチームでの活躍が認められ、1990年11月17日の欧州選手権予選のアルバニア戦で代表にデビューする。チームも11位とリーグ中位を確保したが、リーグ事務局より財政的な問題があるということで翌シーズンの2部降格を命じられる。ジノラは移籍せずに2部リーグでプレーすることとなり、代表から声はかからなくなる。そして、リーグ戦も半ばにさしかかる11月、ブレストは財政破綻のため解散する。

■パリサンジェルマンでの栄光、そしてワールドカップ目前の“あの出来事”

 失業者となったジノラに声をかけたのがシーズン前にビッグクラブ宣言をしたばかりのパリサンジェルマンである。満員の観衆、チームは連戦連勝、それまでのジノラが全く経験をしたことのないオーラの中で、左サイドからの華麗な突破はパリジャンを熱狂させ、甘いマスクはパリジェンヌを魅惑し、女性誌の表紙にもなった。
 このクラブでジノラはその恵まれた才能を発揮する。圧巻は1993年3月のUEFAカップ準々決勝のレアル・マドリッド戦である。伝説のチームを相手にパリサンジェルマンは第1戦はマドリッドで1-3と星を落とすが、第2戦では4-1と見事に逆転勝ち。しかもこの第2戦はロスタイムに入るまでパリサンジェルマンが3-0とリードしており、ロスタイムにレアルが1点返して延長戦かと思われたところ、94分にアントワン・コンブアレが決勝点を上げるという神がかりの大逆転劇。このシリーズで2戦とも得点を上げたジノラは一躍ヒーローとなる。
 92年のスウェーデン欧州選手権で惨敗した後の代表チームにも復帰し、94年ワールドカップ・アメリカ大会に向けた代表の攻撃陣に加わる。二年連続でパリサンジェルマンを欧州三大カップのセミファイナリストに導く原動力となるジノラは代表でも活躍した。そして運命の93年11月17日である。代表デビューを果たして満3年に当たるこの日、フランスはアメリカ行きをかけてブルガリアをパリに迎える。地元パリサンジェルマンのジノラの先発待望論も強かったが、後半ジャン・ピエール・パパンに代わって出場。引き分ければアメリカ行きというロスタイムに、ジノラは敵陣でフリーキックを無人の逆サイドに蹴り込み、カウンターを浴びて新大陸行きを逃すこととなる。
 この年フランスリーグを制し、最優秀選手に選ばれたジノラも翌年は精彩を欠き、1995年には海峡を渡りイングランドのニューキャッスルユナイテッドに移籍する。現在はトットナムで北ロンドンのファンを熱くさせている。

■ジノラの活動はフランス協会、リーグなどを動かした

 プレミアリーグでプレーするフランス人選手は数多いが、ジノラはイングランドで最も長くプレーするフランス人である。ジノラは地雷廃絶キャンペーンに力を入れた。ジノラがアンゴラで足を失った少年たちとサッカーをしている映像は、ダイアナ元王妃の姿と並んで感動的な光景である。「人間は愚かなことはしない、自分の行動は政治的なものではない、足を使うサッカー選手として当然の行動である」というジノラの主張は、イングランドだけではなく全世界に向けた強いメッセージとして影響力を与えている。シーズン終了後はコソボを訪問して地雷廃絶をアピールしたいと強く希望している。
 このロンドンで最も愛されているフランス人の活動は、故国フランスのサッカー界も動かした。フランス協会、フランスリーグなどはフランス赤十字と協力することを欧州選手権予選のウクライナ戦の前日に決定した。ウクライナ戦ならびにアルメニア戦の試合前には各選手の地雷廃絶に関するメッセージがテレビで流された。Tシャツやボールが販売され、シーズンオフには選手の協力によりチャリティーオークションが行われる。また、リーグでもキャンペーンの日を設けるとともに、警告、退場の際に徴収されるフェアプレーキャンペーンの罰金の一部を地雷廃絶キャンペーンにあてることとした。
 国連安全保障理事会の常任理事国でオタワ条約に加盟したのは英国とフランスだけである。セーヌ河岸に散った元王妃と海峡を渡った一人のフランス人サッカー選手が牽引してきたこの活動は両国を動かした。ウクライナ、アルメニアとの連戦を機に代表チームが始めた地雷廃絶キャンペーンは今年いっぱい続く。2000年欧州選手権出場と地雷廃絶が今年の「ブルー」の誓いなのである。

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