第55回 スター誕生 -世界陸上選手権-

■フランス人として3人目の金メダリスト誕生

 今年最大のスポーツイベントは、スペインのセビリアで行われた世界陸上選手権である。1983年のヘルシンキ大会が第1回と歴史は浅いが、1991年には東京で第3回大会が開催され、日本のスポーツファンの間でも定着している。当初はオリンピックの前年に4年おきに開催されていたが、東京大会以降は2年おき、すなわちワールドカップもオリンピックもない年に開催されることになり、隔年開催のもくろみは成功し、世界三大スポーツイベントの地位を確立したのである。
 特に注目を集めるのは、やはりオリンピックイヤーの前年に行われる大会である。今大会は、世界中の注目の中でフランス選手が活躍した。金メダル1個、銀メダル2個、入賞者8人という記録は本大会史上最高の成績であった。
 その中でも唯一の金メダルを獲得したのは女子七種競技のユニス・バルベルだった。バルベルは東京(1991)とエーテボリ(1995)で女子400メートルを制したマリー・ジョー・ペレク、アテネ(1997)で男子400メートルハードルを制し、今回は銀メダルを獲得したステファン・ディアガナに続いてフランス人として3人目の金メダリストとなったのである。

■ライバルのルイスに競り勝ち世界チャンピオンに

 七種競技は大会の中盤に当たる8月21日と22日の週末に行われた。最大のライバルは英国のデニス・ルイス。ルイスはアトランタオリンピックで3位、前回のアテネの世界選手権で2位と実績を残している。一方のバルベルはバルセロナオリンピック26位、エーテボリの世界選手権4位、アトランタオリンピック5位と推移しながら、直近のアテネ大会では棄権している。しかし、7月3日と4日にプラハで行われた欧州カップでは6505点という自己新記録をマークし優勝。また7月23日にはパリで走り幅跳び7m01というフランス記録をマークし、フランス国民の期待は高まっていた。
 初日は100メートルハードル、走り高跳び、砲丸投げ、200メートルの4種目が行われた。バルベルは100メートルハードル(12秒89)と走り高跳び(1m93)はトップ、200メートルも2位(23秒57)、砲丸投げは失敗し21位(12m37)で、3994点を記録した。砲丸投げのトップ(16m12)、走り高跳びの2位(1m87)で3993点を獲得したルイスを1ポイント上回り、バルベルは初日トップに立ったのだ。
 二日目の22日はゴールデンタイムに男女100メートルの準決勝と決勝が控えていたが、フランス国民は陸上の新女王の誕生を見ようと午前中からテレビの前にしがみついた。二日目は走り幅跳び、やり投げ、800メートルの3種目である。バルベルは得意の走り幅跳びで6m86、ルイスに75ポイント差をつける。続くやり投げでもバルベルは49m88、ルイスは自己ベスト(56m50)に遠く及ばない47m44でポイント差は120に広がり、勝利を決定づけた。最後の800メートルで時計が2分15秒65を記録したとき、バルベルは世界チャンピオンとなり、同時に彼女が記録した6861点はフランス新記録で世界歴代7位、今季世界最高という好記録であった。

■政情不安定なシエラレオネからフランスへ

 バルベルは1974年11月に西アフリカのシエラレオネのフリータウンで生まれる。母親のすすめで早くからスポーツに親しみ、学校に通っていたころから、その才能が注目されていた。彼女がフランスに来るきっかけをつくったのはフランス大使館員のドミニク・デュフォーであった。デュフォーはフランス語の普及を担当する傍ら、陸上競技好きで現地の陸上クラブの指導をしていた。デュフォーは14歳のバルベルの才能を見いだし、自らが指導するクラブに勧誘し、七種競技の選手として育成したのである。
 1991年にリヨン、1992年には冬季オリンピックの開催中にアルベールビルと2度の合宿をフランスで行った。そしてシエラレオネでクーデターが起こり国情も不安定なことから、バルセロナオリンピックの一月前にフランスに渡り、前回の本連載で紹介したランスに移住したのである。EFSランスに所属し、その後しばしばコーチが変わるが、現在はパリにある国立体育学校のINSEPとランスを往復する日々が続いている。
 母国シエラレオネが政情不安定でバルベルを支援できないことから、バルベルはついにフランス国籍を取得することに踏み切り、今年2月にフランス国籍を取得したのである。6月から7月にかけて行われた欧州カップではバルベルの国籍取得を記念して、バルベルが主将を務めた。これまでの世界選手権とオリンピックでバルベルは「シエラレオネ代表」として参加しており、今夏は「フランス代表」として欧州カップ、世界選手権を制した。

■フランス語を話す人を一人でも多くつくるムーブメント

 シエラレオネは1961年に英国から独立しており、バルベルとフランスとのつながりを不思議に思われる読者の方も多いであろう。実際バルベルの姉妹はロンドンに居住しており、バルベル自身もロンドンのシエラレオネ出身者のコミュニティの中で生活をしたこともある。しかし、やはりここはフランス大使館でフランス語の普及を担当していたデュフォーの存在抜きには語れない。フランスは国策としてフランス語の普及に熱心であり、その情熱がデュフォーを地元のスポーツクラブへと導き、デュフォーがバルベルをフランスに誘ったのであろう。もしバルベルの才能がデュフォーによって少女期に見いだされなければ、彼女はワールドレベルのアスリートになりえず、もし才能を開花させてもシエラレオネ代表か英国代表となっていたであろう。
 非フランス語圏からフランスに帰化したスポーツ選手は少なくない。サッカーではガーナ(英国植民地から独立)出身のマルセル・デサイー、ラグビーではベネズエラ(スペイン植民地から独立)出身の名FBセルジ・ブランコが有名である。一人でも多くのフランコフォン(フランス語を話す人)をつくろうというナショナルムーブメントが優秀なスポーツ選手がブルーのユニフォームを選択する下地となっているのである。

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