第7回 フリアニの悲劇

■フランス人がサッカーにおいて語り継ぐ悲劇とは

 パルク・デ・プランスのドラマが悲劇でないならば、フランス人は何をもって悲劇と称するのであろう。
 フランス人が悲劇と語り継ぐのは、競技場の内外で死傷者が出た場合だけである。「ヘイゼルの悲劇」についてはユベントスの隆盛とともに日本でも語られ、「ミュンヘンの悲劇」についてはこのサッカークリックの拓海良さんのエッセイ「2月6日」でも取り上げられている。ユベントス、マンチェスターユナイテッドという日本でも有名なクラブで起こったこれらの悲劇は日本でも知られているが、1989年の「シェフィールドの悲劇」はそれらを上回る95人の犠牲者を出している。このような場合、地名を冠した悲劇という表現が使われ、人々の心の中に深くそして長く刻み込まれるのである。

■コルシカ島のバスティア市民には本土への対抗心があった

 フランス・サッカー界最大の悲劇と言われるのは1992年5月5日の「フリアニの悲劇」である。この悲劇の舞台となったのは、コルシカ島(現地読みではコルス島)にあるバスティアのホーム・スタジアムのフリアニ・スタジアムである。フランスカップの準決勝に当時2部リーグであったバスティアが進出、対戦相手はリーグで首位を走り、リーグ4連覇を目前に控えたマルセイユであった。
 1989年以前のフランスカップは、準決勝まではホームアンドアウエー方式で行われていた。1990年になってからはすべて一回戦方式になっており、抽選でいずれかの本拠地で試合が行われている。バスティアとマルセイユとの間の準決勝はバスティアのホームで行われることになっていた。
 コルシカ島というと、独立運動が起こるなど、フランス本土から独立した文化を構築している。バスティアとアジャクシオという二つのクラブが有名であるが、選手の名前もイタリア系であり、横断幕にも「 ALLEZ」(フランス語で行けという意味)ではなく「FORZA」(イタリア語でがんばれという意味)と書かれている。
 このように書くと、コルシカ島は遠い存在であると感じるかもしれないが、まさにマルセイユの対岸で、飛行機でわずか30分のところにある。また、コルシカ出身の選手は通常島の外ではプレーせず、コルシカのチームに残るのが普通であったが、当時のマルセイユのGKのパスカル・オルメタはバスティア出身で、久しぶりに故郷でプレーをすることになっていた。バスティアの市民は単なるジャイアント・キリングを期待するだけではなく、本土への対抗心もあった。一方、王者マルセイユは対岸のバスティアに乗り込み、フランスカップ獲得へと意気込んでいた。

■規定外のスタジアム、突貫工事で対応することに

 このように島内外の注目を集める試合となったが、問題はフリアニ・スタジアムの収容能力にあった。1978年にはUEFAカップで準優勝するなど輝かしい戦績を残しながら、1986年から2部にとどまり、スタジアムの収容能力もわずか8500人であった。島内はもとよりマルセイユからも大挙するサポーターをこれではとうていさばくことはできない。またフランスカップではベスト8決定戦以上は1万5000人以上の収容能力のあるスタジアムで試合を開催することが規定されており、下部リーグのチームが勝ち進み、本拠地以外でやむなく試合をするケースがある。
 もしもこの規定に則り、観客を受け入れることを考えるならば、開催地を返上し、マルセイユのベロドローム・スタジアムで試合を行うことも考えられたが、バスティア側は組み合わせ決定から2週間の間に突貫工事で仮設スタンドを設置して収容能力を1万8000人まで拡大し、マルセイユを迎撃することになった。なお、この仮設スタンドは3カ月前に伊藤みどり選手が銀メダルを獲得したアルベールビル冬季オリンピックのフィギュアスケート会場で用いられたものである。

■仮設スタンドが異音とともに倒壊した・・・

 そして、運命の5月5日がやってくる。島内だけではなく、マルセイユからもチャーター機が飛び、スタジアムは満員になる。20時、選手がフィールド上でウォーミングアップを開始し、興奮の度合いは高まってきた。20時15分、仮設スタンドから異音が生じる。その直後、ゴール裏の仮設スタジアムが倒壊した。死者17人、負傷者2000人以上というフランス・サッカー界最大の惨事となったのである。
 死者には毛布ではなく、生存していたサポーターが横断幕をかけた。伊藤みどり選手のトリプル・アクセルに歓声を上げた観客から花束が投げ込まれたスタンドは、海を渡り、悲鳴と嗚咽に包まれ、スタンドには無数の花束が捧げられたのである。
 この試合が行われなかったのは言うまでもないが、フランスカップの決勝までもが中止になった。第二次大戦中も中止になることのなかったフランスカップではあるが、この「フリアニの悲劇」によって初めて中止になったのである。(リーグ戦は1932年に始まり、第二次大戦中の1939年から1945年までは中止されている)
 まもなく5月5日がやってくる。この日がくるたびに、フランス人はフリアニの悲劇を思い出す。彼らは試合の勝敗に「悲劇」という表現を使うことはできないのである。

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