第76回 「グラン・ブルー」伝説の二冠(前編)

■フランス、輝く伝説の二冠

 2000年7月2日、オランダ、ロッテルダム、今世紀最後、そして新千年紀最初の伝説が生まれた。フランスは宿敵イタリアとの決勝戦で、後半ロスタイムのシルバン・ビルトールの同点ゴール、そして延長前半のダビッド・トレズゲの決勝点で逆転勝ち。カテナチオをこじ開けた扉の向こうには、今までのワールドカップ覇者がなし得なかった欧州選手権優勝という新たな伝説が待っており、ブルーは「グラン・ブルー」(偉大なる青)となった。
 フランスの戦いぶりはサッカークリックで日本を代表するサッカージャーナリストである大住良之氏のマッチレポートと、同じくワールドクラスのフォトグラファーである富越正秀氏の写真速報で紹介されていることから省略したいが、決勝トーナメントに入ってからはスペイン、ポルトガル、イタリアと実力派との試合をいずれも2-1で下し、栄冠を手にした。これらの3試合についてはいずれが勝ってもおかしくない試合であり、「サッカーの女神」の存在を信じたのは筆者だけではないであろう。もちろん「運」と「実力」がともなってこそ栄冠を手にすることができるが、フランスの強さについて過去の成績と比較しながら考察を加えたい。

■目を見張る90年代後半の国際大会での成績

 欧州各国にとってサッカーの主要国際大会はワールドカップと欧州選手権である。2年ごとに行われるこれらの大会でフランスがどのような成績を残しているかを振り返ってみよう。
 フランスは、2000年欧州選手権、98年ワールドカップと連覇しているが、その前の96年欧州選手権はベスト4に」入り90年代後半は素晴らしい成績を残している。2000年欧州選手権の戦績は、予選で6勝3分1敗、本大会では5勝1敗。本大会での1敗はすでにグループリーグ突破を決定し、控えメンバーで臨んだオランダ戦である。98年ワールドカップは予選免除で本大会では6勝1分、1分は準々決勝のイタリア戦で、終始試合を支配しPK勝ちしている。そして96年欧州選手権は予選で5勝5分、本大会では2勝3分、準々決勝はオランダにPK勝ち、準決勝でチェコにPK負けという結果であった。
 一方、その前の94年ワールドカップ(アメリカ)は予選敗退、92年欧州選手権(スウェーデン)は本大会のグループリーグ敗退、90年ワールドカップ(イタリア)は予選敗退、88年欧州選手権(西ドイツ)も予選敗退と、見るべき成績を残していない。90年代後半は90年代前半とは見違えるような成績を残していることがわかる。

■美しさと強さを備えた90年前半のフランス代表

 それでは、90年代前半のフランス代表が弱いチームであったかというとそうではない。国際大会の予選あるいは本大会で期待を裏切っただけで、むしろ実力は現在のチームと遜色無いという評価は少なくない。また、ジャン・ピエール・パパン、エリック・カントナ、ダビッド・ジノラの攻撃陣、クリスチャン・ペレス、ジャン・マルク・フェレーリなどの中盤、エマニュエル・アモロス、エリック・ディメコ、アラン・ロッシュというディフェンスラインにゴールマウスを守るブルーノ・マルティニ、というメンバーの華麗なサッカーは、勝敗を越えたフランス・サッカーの美しさを象徴していた。日本のレゼコーと言われる日本経済新聞のジャーナリスト武智幸徳氏は、94年に訪日したフランス代表がワールドカップ優勝時のフランスより好きであると、今年のキリンカップのプログラムの中で述べている。
 この時代のフランス代表は美しさだけではなく、もちろん強さも兼ね備えていた。89年3月から92年2月までの2年11か月に渡る不敗記録は、国際試合が一般化した戦後の最長記録である。
 また、92年欧州選手権予選では、90年のワールドカップで上位進出したスペイン、チェコスロバキアと同じ組に入りながら、8戦全勝というグランドスラムを達成している。優勝した今大会、ベスト4に入った前回大会とも最終戦でようやくチケットを手にしたこと、92年大会は本大会出場枠が8か国だったことを考えると驚異的な記録である。

■大舞台での弱さと単独チームとの共通点

 しかし、優勝候補筆頭として乗り込んだスウェーデンでは1勝もできずにグループリーグで敗退、大会後ミッシェル・プラティニは代表監督から辞意を表明する。その後監督に就任したジェラール・ウリエは、親善試合では連戦連勝、しかも大勝続きで、負けたのはわずかに1試合(92年8月ブラジル戦)だけだったが、94年ワールドカップの予選では最終戦のロスタイムの失点でブルガリアに敗退し、本大会出場を逃した。この予選では3敗を喫し、しかも相手が明らかに格下のイスラエルとブルガリアであった。ホームゲームで2敗し、ワールドカップ予選のホームゲームで24年ぶりに敗れるという不名誉な記録を作ってしまった。
 一方、単独チームに目を向けてみよう。ボスマン判決以前、ほとんどのフランス人選手がフランスリーグに所属していたこの時代は、マルセイユの全盛期であった。チャンピオンズカップに4年連続で出場し、優勝1回(のちに剥奪)、準優勝1回、準決勝進出1回、黄金時代の宿敵ACミラノを2度に渡り倒した唯一のチームであった。さらに国内のライバルのボルドー、モナコ、パリサンジェルマン、オセールも欧州三大カップで上位に進出し、現行の制度が10年前に導入されていたら、欧州三大カップの歴史も変わっていたであろう。しかしながら、代表チーム同様、欧州の頂点に立つことはなく、96年にパリサンジェルマンがカップウィナーズカップを手にするまで欧州のカップ戦を制することができなかったのである。
 一言で言うとこの時代のフランス・サッカーには「運」と「勝負強さ」が欠如していた。フランス・サッカーを象徴する試合が82年ワールドカップ(スペイン)準決勝の西ドイツ戦(延長戦で3-1とリードしながら追いつかれ、PK負け)、あるいは86年ワールドカップ(メキシコ)準決勝の西ドイツ戦(準々決勝でブラジルを好ゲームの末PK戦で下すが、準決勝では精彩を欠き0-2敗退)であるならば、90年代前半のフランス代表、そしてフランスの強豪クラブも、非常に「フランス的」なチームであったかもしれない。

■90年代後半に訪れた変化とは?

 98年にワールドカップで初優勝した際に、その理由としてフランスの育成制度、多民族からなるチーム編成を挙げる声もあった。しかしながら、これらは今に始まったことでもなければ、98年にようやく実を結んだということでもない。育成制度については66年ワールドカップ(イングランド)でグループリーグ最下位で終わった際に当時のフランスサッカー協会会長ジャック・ブローニュの提唱で設けられ、フランス代表の多民族性については50年代からの伝統である。それでは、90年代後半にどのような変化がフランスサッカー界に起こったのであろうか。(続く)

このページのTOPへ