連覇を狙うフランス・サッカー 若き“ブルー”の肖像~ワールドユース、フランス戦記(2)

9大会予選落ちの屈辱

 制度や設備の整備により若手選手が相次いで台頭し、選手育成に定評のあるフランス・サッカーであるが、意外なことに過去のワールドユースでの成績は芳しくない。
 ワールドユースは1977年にサッカーのさらなる普及のためにワールドカップに続いて創設された初めての年齢制限のある大会である。アフリカ・アジアなどのサッカーの普及と強化を図るために第1回大会はチュニジア、第2回大会は日本というように欧州以外を中心に開催されている。また、本大会の出場枠もアフリカ・アジアに多く割り振られており、欧州地区からの出場枠がワールドカップに比べて少ないこともその特徴である。
 フランスは地中海の対岸で行われたこの記念すべき第1回大会のワールドユースに出場した。しかしながら、グループリーグで準優勝したメキシコに次いで2位にとどまり、決勝トーナメントに進出することはできなかった。東西冷戦下で行われた大会で、米国資本のスポンサーの冠大会であったことから東欧圏のボイコットも懸念されたが、ソ連が圧倒的な強さを見せて優勝を飾ったのである。
 この大会に出場して後にフランス代表として定着した選手は非常に少なく、1982年のワールドカップ・スペイン大会、1984年の欧州選手権・フランス大会、1986年のワールドカップ・メキシコ大会に出場したベルナール・ジャンニーニと1986年のワールドカップ・メキシコ大会に出場したミッシェル・ビバールくらいである。
 この後、フランスはこのFIFAの第2の大会では長いトンネルが続く。1979年の日本大会の予選も早々と敗退、欧州からはスペイン、ポルトガル、ユーゴスラビア、ポーランド、ソ連とイベリア勢と東欧勢が日本の地を踏んだのである。そしてこの大会から1995年大会まで連続して9大会、フランスは予選落ちを味わうことになる。

「未来の代表」若きタレントがそろったマレーシア大会

 そしてフランスがワールドユースの本大会に姿を現したのは初出場から実に20年経過した1997年大会のことであった。前年のアトランタオリンピック期間中にU-18欧州選手権がフランスで開催され、小澤征爾が栄冠に輝いたことで日本人ならばだれでも知っている町、ブザンソンで7月30日に行われた決勝でフランスはスペインを1-0で破って優勝を飾り、ワールドユース本大会の出場権を得る。
 1997年大会の開催地はマレーシア。1979年の日本開催以来の東アジアでの開催である。(中東では1989年のサウジアラビア、1995年のカタールでの開催実績がある)久々の本大会出場となるフランスは後にフル代表で活躍することになるタレントをそろえていた。GKは今回のコンフェデレーションズカップでフル代表にデビューしたミカエル・ランドロー、DFにはフィリップ・クリスタンバル、ビリー・サニョル、ミカエル・シルベストルなどの若手フランス代表、MFはインテル・ミラノに移籍したペテール・リュクサン、そして圧巻はFW陣である。ダビッド・トレゼゲ、ティエリー・アンリ、ニコラ・アネルカと現在のフランス代表の攻撃陣を支えるメンバーがそろったのである。そして若きタレントたちの手綱さばきを任されたのは1994年ワールドカップ・アメリカ大会予選の代表チームを率いたジェラール・ウリエ(現リバプール監督)である。
 メンバーもそろい期待も高かったが、準々決勝で準優勝したウルグアイと1-1の末、PK戦となり、6-7で敗れ、久しぶりのワールドユースで成果を残すことはできなかった。しかし、前回出場時と異なり、メンバーの多くが現在のフル代表に定着しつつあり、洋々たる前途が開けていたのである。<(3)へ続く>

フランス若手育成システム
フランスにはクレールフォンテーンなど全土6カ所にINF(国立サッカー学院)を中心とした選手育成システムがある。INFでは、優秀な若手をスカウト、費用をすべて持ったかたちで、敷地内の寮に寄宿させ学業とサッカー両方の面倒をみている。INF卒業生として有名なのは、ティエリー・アンリ、ニコラ・アネルカなど。1998年ワールドカップでも育成システム出身者が大きな成果をあげた。現在、フランスではINF選手の早期引き抜き、いわゆる青田買いが問題にもなっている

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