連覇を狙うフランス・サッカー 若き“ブルー”の肖像~ワールドユース、フランス戦記(1)

ブルーにとって「鬼門」のマル・デル・プラタ

 2年に1度開催される第13回ワールドユースがアルゼンチンで開幕する。今回から複数回にわたり、ワールドユースでの若きブルーの活躍を取り上げたい。フランスがグループリーグを戦うのは首都ブエノスアイレスから南方に400キロ離れ、「南米のモナコ」と言われるアルゼンチン屈指の避暑地マル・デル・プラタである。
 しかし、フランス人のサッカーファンにとってマル・デル・プラタは忘れることのできない苦い思い出の地である。1978年ワールドカップ・アルゼンチン大会。久しぶりの本大会出場となったフランスはこの大会の準備のために年初から親善試合を重ねてきた。2月にナポリで行われたイタリア戦は前半に2点を先行されながらも、後半にドミニク・バトネイ、ミッシェル・プラティニのゴールで追いつき、引き分け。3月にはパリでポルトガルを2-0と一蹴。圧巻は4月にブラジルをパリに迎えて行われた一戦である。スコアレスドローかと思われた86分にジャン・プチの右からのセンタリングをトニーニョ・セレーゾ(現鹿島アントラーズ監督)に競り勝ったプラティニの一撃にブラジルGKレオン(前ブラジル代表監督)は追いつけず、決勝点。対ブラジル戦初勝利となったのである。5月には初めてのアジアのチームとの対戦となるイランをトゥールーズに迎えて2-1、1週間後には同じくアフリカのチームとの初対戦となるチュニジアをヴィルヌーブ・ダスクで2-0と連破し、満を持して大西洋を渡ったのである。
 開催国のアルゼンチン、欧州の強豪イタリア、東欧の古豪ハンガリーと同じ組に入ったフランスの初戦は6月2日にマル・デル・プラタで行われるイタリア戦。開催国のアルゼンチンの存在を考慮すると、実質的に2次リーグ進出をかけた大一番と考えられる。試合は開始30秒にベルナール・ラコンブが衝撃的な先制点。いまだに破られていないフランス代表最速得点である。(ちなみにワールドカップの本大会では1962年大会のチェコスロバキアのバクラフ・マゼックの15秒がレコードである)しかしながら多くのイタリア移民の声援を受けたイタリアは後のワールドカップ・スペイン大会で得点王となるパオロ・ロッシが29分に同点ゴール、後半に入って出場したレナート・ザッカレリが54分に逆転ゴールを決め、フランスは大事な初戦を落としたのである。

欧州外におけるワールドカップ以外での最初の敗戦

 そして第2戦は首都ブエノスアイレスに移動し開催国のアルゼンチンに挑戦する。「アルヘンチナ!」の大声援と日本のプロリーグ創生期の応援の原型となった紙ふぶきの中、パトリック・バチストン、ドミニク・ロシュトーなどイタリア戦と4人のメンバーを変えたブルーは前回出場時に地元イングランドに0-2といいところなく敗れた雪辱を期す。前半ロスタイムにアルゼンチンの主将のダニエル・パサレラにPKで先行されたが、60分にプラティニが同点ゴール。しかしながら73分にレオポルド・ルーケに決勝点を奪われ、フランス代表の1970年代唯一のワールドカップ本大会は終わってしまったのである。
 消化試合となった第3戦は再びマル・デル・プラタで行われた。この試合、両チームが同色のユニフォームしか準備せず、フランス代表は地元クラブのラプラタ・キンバリーの緑と白の縦じまのユニフォームで試合に臨む。交代選手も含めて代表歴が20試合以上あるのはマリウス・トレゾールだけという若いメンバーで戦ったフランスは古豪ハンガリーを3-1と退け、ワールドカップ本大会で20年ぶりの勝ち星を挙げたが、ユニフォームの1件といい、後味の悪い南半球でのワールドカップとなったのである。
 マル・デル・プラタに関する苦い思い出はこれだけではない。前回の連載で取り上げたとおり、1971年にフランス代表はアルゼンチン遠征を行う。現代表監督のロジェ・ルメールも参加したこの遠征で、1月8日にブエノスアイレスで行われた第1戦は点の取り合いとなり、フランスが4-3と追いすがるアルゼンチンを振り切り、3度目の対戦で初勝利を挙げる。しかしながら5日後にマル・デル・プラタに場所を移して行われた第2戦では0-2と完敗する。実はこの試合はフランス代表にとって欧州外におけるワールドカップ以外での最初の敗戦である(それまでにワールドカップにおいても1930年にウルグアイで行われた第1回大会でアルゼンチンに0-1と敗れただけである。1930年8月1日にリオデジャネイロでブラジルに2-3と敗れているが、この試合はブラジル協会からは公式戦とは認められていない)。フランス代表にとっては鬼門ともいえるマル・デル・プラタ。その地でワールドユースのグループリーグを若きブルーが戦うのである。<(2)へ続く>

1978年アルゼンチンワールドカップ
アルゼンチンでは1976年に軍事クーデターが起き、78年のワールドカップは軍政下で行われることになった。軍事政権は、約1万人の市民を連行・拷問する弾圧(「汚い戦争」)、それに反対する反政府ゲリラは大会組織委員長のオマル・アクティス将軍を暗殺するなどの政情不安もあり、ヨーロッパでは大会ボイコットの動きもあったが、大会はなんとか開催され、ケンペスを擁する地元アルゼンチンが初優勝を遂げた

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