歴史を切り開くアフリカの雄――チュニジア代表 自主独立の精神がもたらした3度目のワールドカップ(1/4)

■アフリカ勢として初のW杯本大会勝利を挙げる

 近年成長著しいアフリカ・サッカー。ワールドカップ出場枠も5となり世界のサッカーシーンの一翼を担っているが、その台頭の歴史はまだ浅い。ワールドカップには第2回大会に当たる1934年のイタリア大会にエジプトが出場したが、1回戦でハンガリーに2-4と敗れている。
 その後アフリカ勢の出場は70年大会のモロッコまで長い間の空白となる。メキシコの地でモロッコは初戦で西ドイツ相手に先制点を奪うが逆転負け、ペルーには完敗、グループリーグ敗退が決定する。消化試合となったブルガリア戦で先制されながらも追い付き、アフリカ勢として初の勝ち点を獲得する。そして74年大会にはザイール(現コンゴ民主共和国)がブラックアフリカから初出場するが、1点も奪えず、1次リーグで3連敗する。
 そして、78年にアフリカ勢として本大会での初勝利を挙げたのが今回紹介するチュニジアである。
 初戦はロサリオで、前回大会の開催国でベスト8であるメキシコと対戦する。この中米の古豪相手にチュニジアは3-1と完勝する。続く東欧の雄ポーランドとの戦いは0-1と惜敗するが、グループリーグの最終戦で前回優勝の西ドイツと戦い、スコアレスドローに持ち込む。16チームしか本大会に出場枠のなかったこの時代に、1次リーグで1勝1分1敗という成績は十分に評価できる。

■サッカーにも影響を及ぼしたチュニジアの近代史

 チュニジアの歴史をさかのぼればカルタゴの栄華にたどり着く。紀元前9世紀にフェニキアの王女エリッサによって建設されたカルタゴは海上貿易や農業で反映し、その勢力を拡大する。そのカルタゴの勢力拡大にストップをかけたのが地中海の対岸にあるローマ帝国であり、紀元前264年にシチリアの権益をめぐって起こったポエニ戦争は、その後チュニジアの英雄ハンニバルが活躍した第二次ポエニ戦争、最後はローマ帝国の猛攻にろう城作戦を採った第三次ポエニ戦争と続き、100年以上の戦いの末、カルタゴは屈し、町は廃虚となる。その後アラブ人による支配を経て16世紀にはオスマン・トルコ帝国の一部となる。
 そしてオスマン・トルコの衰退とともに、19世紀後半には産業革命で勢力を伸ばした欧州列強が、この地を虎視眈々(こしたんたん)と狙うことになる。1878年、チュニジアがフランスの支配下に入り、キプロスを英国が統治することになる。ここでチュニジアがフランス語圏の中に入ることになったのである。第二次世界大戦中にフランスがドイツに降伏した期間はチュニジアはドイツの支配下にあったことは、映画『イングリッシュ・ペイシェント』が日本でも上映されたことからよくご存じであろう。
 第二次世界大戦後、世界に平和が訪れ、アフリカの植民地に独立の機運が高まる。チュニジアも例外ではなく、独立運動がわき起こる。そして数多くの命と引き換えにして、ついに1956年に独立を勝ち取る。翌57年には共和制を宣言し、大統領の座に就いたハビブ・ブルギバが西欧諸国寄りの外交政策で脱イスラム文化を図り、アフリカを代表する先進国となったのである。
 このチュニジアの近代史は、サッカーの世界にも大きな影響を与えている。チュニジア・リーグが始まったのは1921年、フランスよりも10年以上早く始まっている。第二次世界大戦中は中止されたが、ドイツの支配下だった期間には一時的にリーグ戦が行われている。そしてドイツの降伏とともに、44年に正式にリーグが再開。だが再び、51年からリーグは4年間にわたって行われなくなる。これは独立戦争のためである。
 そして77年12月11日、チュニジア代表は翌年に控えたワールドカップ・アルゼンチン大会の予選最終戦となる対エジプト戦で爆発し、最多得点となる4点を挙げ、守備陣も1点に抑え、ついにチュニジア・サッカーは新たな歴史をつくったのである。<続く>

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