連覇を狙うフランス・サッカー 「コンフェデレーションズカップ総括」(1)

フランス代表の国外遠征の歴史とその目的

サッカーの世界で「ホームとアウエーのどちらが有利か」という質問の答えは明白である。しかし同じアウエーでもそれが複数の試合をこなすツアー(遠征)、しかも代表チームのような混成チームの場合、その答えは分からなくなる。移動や試合を繰り返す共同生活の中でチームは結束を固め、メンバーや戦術も試行錯誤する中で成熟してくる。フランス代表にとってコンフェデレーションズカップは久しぶりの長期にわたる遠方でのトーナメント出場の機会となった。タイトルだけではなく、多くのものを得ることができた今回の遠征を振り返ってみよう。

 フランス代表が国外でのトーナメントに出場するのはこれが6回目のことである。  まず最初は1972年6月にブラジルで行われたインディペンデンスカップ。フランスは予選リーグで中米選抜を5-0、アフリカ選抜を2-0、コロンビアを3-2と破り、予選リーグの首位の座をかけて同じく3連勝のアルゼンチンと対戦する。試合はスコアレスドローとなり、結局得失点差でフランスは及ばず、決勝進出を逃す。
 次はワールドカップ・イタリア大会予選敗退直後の90年1月のクウェートでの3カ国対抗である。82年のワールドカップ・スペイン大会以来の対戦となるクウェートに1-0、東西ドイツの統合前でマティアス・ザマーを擁する東ドイツに3-0と連勝し、予選敗退のショックからチームは立ち直り、欧州選手権・スウェーデン大会予選の全勝へのステップとなる。
 そして、2回連続してワールドカップ本大会の出場権を失った翌年の94年5月には、日本で開催されたキリンカップに出場する。当初、アルゼンチンが出場するということでフランスは出場を決めたが、ディエゴ・マラドーナの薬物使用の前科のために日本外務省が彼の入国を断り、その影響からアルゼンチンは出場を取りやめ、一時はフランスの出場も危ぶまれた。しかし、豪州が代替出場することとなり、フランスは初めて中東以遠の地を踏むことになる。豪州を1-0、日本を4-1と一蹴(いっしゅう)し、難なく優勝した。
 4回目と5回目の国外トーナメント出場は98年のワールドカップ・フランス大会、2000年欧州選手権・ベルギー・オランダ大会の直前に参加したモロッコでのハッサン?世国王杯である。98年はベルギーに1-0で勝ったが、モロッコとは2-2のドローとなり、PK戦で5-6と敗れる。2000年は日本に2-2とようやく追い付いてから、PK戦で4-2と振り切り、控えメンバーで臨んだモロッコとの決勝では5-1と大勝。前回の雪辱を果たした。
 これ以外に国外に遠征して複数の試合を行ったのは、ワールドカップ、欧州選手権を除くと71年のアルゼンチン遠征(第1戦4-3、第2戦0-2で1勝1敗)と77年のアルゼンチン、ブラジル遠征(アルゼンチンと0-0、ブラジルと2-2の引き分け)である。

 日程上の問題から簡単に国外遠征を行うことが難しくなっていることに加え、国外遠征の目的も変わってきている。従来はチーム作りをすることが目標で、国外遠征で代表デビューする選手も少なくなかった。90年のクウェート戦ではジル・ルセ、レミー・ガルド、パスカル・バイルアが代表デビューしている。94年の日本遠征では豪州戦でファビアン・バルテス、クリストフ・デュガリー、日本戦でニコラ・ウエデックがデビューを果たしているが、本大会直前のハッサン?世国王杯では国外リーグに散らばっているメンバーを集結させて調整を行うことが目的であり、代表デビューどころか新しいフォーメーションを試すようなこともできなくなった。
 そういう点では今回のコンフェデレーションズカップは既に本大会のチケットを確保しており、本大会まで1年の期間があり、スペインリーグとイタリアリーグ所属のメンバーが大量に欠ける、という条件を考慮すると、従来のように新しいメンバーを加え、新しいチーム作りをしていく機会ととらえることができる。(2)に続く

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