第1002回 最後の山場、9月の連戦(3) ルーマニア革命から20年、本大会出場を狙うルーマニア

■フランス革命200周年に起こったルーマニア革命

 来年のワールドカップ出場にむけて注目の試合となったフランス-ルーマニア戦、今年この両国が対戦することは意味がある。今年はルーマニア革命20周年である。20年前の1989年はベルリンの壁の崩壊をはじめ、東欧の自由化が起こった年であった。12月25日、ルーマニアのニコラエ・チャウシェスクは処刑され、ルーマニアは独裁政権から開放される。この年はフランス革命200周年でもあり、7月14日の革命記念日のパレードはそれまでにない盛大なものになった。そのフランス革命以来、200年ぶりに欧州で流血による革命が行われた年であるということを忘れてはならないであろう。

■ニコラエ・チャウシェスク政権崩壊前夜に勝ち抜いた予選

 20年前と言うことはこの年の秋もワールドカップ予選が大詰めであった。フランスはイタリア行きに向けて序盤からつまずき、最後追い上げたものの、ユーゴスラビア、スコットランドにチケットを譲り渡す。
 ルーマニアのサッカーはチャウシェスク政権にバックアップされたディナモ・ブカレストとステアウア・ブカレストがリードし、代表チームもこの2チームからのメンバーが主力となった。ルーマニアはデンマークと激しいマッチレースを繰り広げ、両チーム無敗同士でルーマニアが勝ち点1だけリードして、残り2試合の直接対決を迎える。1989年10月11日にデンマークに乗り込んだ首位ルーマニアは勝てばイタリア行きが決まったが、0-3で敗れ、首位をデンマークに奪われ、最終戦を迎える。逆転を狙うルーマニアは11月15日にホームでデンマークと対戦する。この試合に3-1で勝利したルーマニアは20年ぶりのワールドカップ出場を決めたのである。そして翌月の12月、ルーマニアでは反体制デモが起こり、21日にチャウシェスクは共産党本部前の広場で自らを賞賛する集会を開いたが、10万人の群集はサッカーの応援ソングを歌い、チャウシェスクを否定し、集会は大混乱となった。ワールドカップ出場の歓喜の際に歌われた応援ソングは、翌月には独裁政権から解放を求める歌となったのである。
 それから20年、ルーマニアはワールドカップに3回、欧州選手権も3回、予選を勝ち抜いているが、ルーマニアの激動の歴史の前夜に勝ち抜いたイタリア・ワールドカップ予選が国民の中では今でも語り継がれ、ルーマニア革命20周年を迎えた今年もその再来を願っているのである。

■序盤からつまずいたルーマニア

 しかしながら、ルーマニアは出遅れてしまう。まず昨年9月6日に行われた第1戦ではホームでリトアニア相手にまさかの0-3と言う大敗を喫してスタートする。その4日後のアウエーのフェロー諸島戦も前半は得点を取ることができず、後半にようやく1点をあげて勝ち点3を獲得する。
 第3戦となった10月11日のホームのフランス戦では17分までに奪った2点のリードを守りきれず、2-2のドローに持ち込まれてしまう。そして年が変わり、3月28日にはホームで隣国セルビアと戦うが、終始リードを許し、2-3と負けてしまう。4月1日にはオーストリアに移動してアウエーゲームを戦う。この試合は先制したが、直後に同点ゴール、逆転ゴールを奪われ、1-2と敗れてしまう。5試合消化した段階で1勝1分3敗と昨年の欧州選手権出場チームらしからぬ成績で折り返した。

■親子二代の青年監督ラズバン・ルチェスク

 この試合の敗戦を受け、ルーマニアはビクトール・ピチュルカ監督を更迭し、ほぼ1月の空白期間の後、4月29日に弱冠40歳のラズバン・ルチェスクが青年監督として就任する。ルチェスク新監督の父親はウクライナのシャフタール・ドネツクのミルチュア・ルチェスク監督の息子である。そしてそのミルチュア・ルチェスク氏は1981年に36歳の若さでルーマニア代表の監督になり、ラズバン・ルチェスク氏は同国史上2番目に若い代表監督であり、親子二代の代表監督である。6月6日のリトアニアとのアウエーの試合では見事に1-0で勝利し、本予選2勝目をあげ、フランスに乗り込んできたのである。(続く)

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