第1935回 パリ同時多発テロ(1) テロの標的となったスタッド・ド・フランス

 4年前の3月11日の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、東北地方だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■スタッド・ド・フランスで始まった同時多発テロ

 ゴール前でのプレーシーン、見せ場の少ない試合ながら、オリビエ・ジルー、アンドレ・ピエール・ジニャックという代役のゴールでフランスがドイツに勝利したが、この1戦は歴史の1ページを形成する重要な試合になった。
 前半16分頃にスタジアム内でも聞こえ、パトリス・エブラが一瞬足を止めた爆音、それはパリ同時多発テロの最初の一撃であった。爆弾を体に巻きつけたテロリストはスタッド・ド・フランスの入口のセキュリティチェックに引っかかったところで自爆し、実行犯1人だけではなく、市民1人も命を落とす。これが一連の同時多発テロの始まりであった。
 その5分後にはパリ10区にあるカンボジアレストランで発砲、11人が射殺される。スタッド・ド・フランスでは1回目の爆発の10分後に、2回目の爆発が起こる。さらにパリ19区でも発砲によるテロ、パリ11区のカフェ、ベル・エポックでの発砲テロでは20人以上が犠牲となる。そして最大の惨事を招いたのが11区にあるバタクラン劇場であった。スタッド・ド・フランスで最初の爆発が起こってから分後、米国のロックバンドのイーグルス・オブ・デス・メタルのコンサート中に4人のテロリストが乱入、発砲、自爆などにより89人の犠牲者がでた。結局パリ市内の東部とサンドニの6か所での同時多発テロとなり、129人の尊い命が失われた。ドイツ戦に出場しているラッサナ・ディアラもいとこをこの事件で亡くしている。

■フランソワ・オランド大統領の決断

 フランソワ・オランド大統領は試合途中にこの事件を知らされ、特別室に移動し、フランスサッカー協会のノエル・ルグラエ会長、カズヌーブ内相とともに難しい判断を決定する。それは選手、観客に事件を知らせるか、試合を中止するか、選手、観客を移動させるか、ということであったが、選手、観客に事件のことを知らせず、試合を続行し、選手、観客を出入りさせないことによって危険を回避しようと判断した。結果的にはこの判断は正解であった。1つ間違えば何百、何千という選手、観客が命を落とす可能性もあったのである。

■ほぼ50年ぶりのフランス全土への非常事態宣言

 オランド大統領は大統領府に戻り、陣頭指揮を執る。フランス全土に非常事態宣言を発令したのである。フランス全土に非常事態宣言が発令されたのは1958年に始まったアルジェリア戦争以来のことである。アルジェリア戦争と言えば本連載第5回から第12回にかけて取り上げたアルジェリアとの親善試合を思い出される読者の方も少なくないであろう。
 2001年10月6日に行われたフランスとアルジェリアの初対決はファンが試合途中にピッチに入り込み、試合は途中で打ち切られる(試合は成立し、フランスが4-1で勝利)。

■スタッド・ド・フランスにとどまったドイツ代表

 フランス代表と対戦したドイツ代表は試合の前日にパリ入りしたが、宿泊しているホテルに爆破をほのめかす電話がこの日の朝にかかってきた。ドイツ代表の選手、スタッフは安全を確保するために、スタッド・ド・フランスにとどまり、スタッド・ド・フランスから直接空港へ向かった。

■数多くのスポーツイベントが中止に

 サッカー、スポーツが政治や経済に左右されること、このことは善悪は別として受け入れなくてはならない事実であろう。そして、金曜日の夜に起こったこの事件の余波で、週末にパリで行われる予定だったスポーツイベントは中止となり、ボルドーで開催中のフィギュアスケートのフランストロフィーは初日のショートプログラムが終わったところで打ち切りとなる。
 サッカーのフランス代表もイングランドとロンドンのウェンブリーで行う親善試合も開催が危ぶまれたが、予定通り試合を行うことになった。
 1月7日に起こったシャルリー・エブド襲撃事件ではスポーツはテロに反対する意思を示したが、今回は逆にテロの標的となったのである。(続く)

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