第3358回 パリサンジェルマン、バルセロナに大逆転(2) モンジュイックで試合を行うバルセロナ

 平成23年東日本大震災、平成28年熊本地震、平成30年7月豪雨、台風15号、19号、令和2年7月豪雨、令和6年能登半島地震などで被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。また、復興活動に従事されている皆様に敬意を表し、被災地域だけではなくすべての日本の皆様に激励の意を表します。

■バルセロナに誕生する新スタジアム

 ホームの第1戦を、いったんは逆転しながら、再逆転されて2-3と落としてしまったパリサンジェルマン、アウエーでの第2戦はバルセロナに乗り込む。バルセロナの本拠地、カンプノウ競技場は昨年から建て直しをしている。新スタジアムの設計は日本企業が担当することになったことから日本の皆様もよくご存じであろう。国立競技場、横浜国際総合競技場などの日本のスタジアム設計のノウハウが満載された新スタジアムにバルセロナのみならず世界のサッカーファンが期待している。

■1992年のオリンピックのメイン会場となったリュイス・コンパニス競技場

 したがって、2023年夏から2024年秋までの工事の間、バルセロナはモンジュイックにあるリュイス・コンパニス競技場を使用することになった。
 1992年のバルセロナオリンピックのメイン会場となったことで知られるスタジアムであり、オリンピック後の1996年からはRCDエスパニョールが使用し、RCDエスパニョールは2009年に自前の競技場であるRCDE競技場を完成させ、移転する。第二次世界大戦後に行われた夏季オリンピックのメイン競技場が現存しながら、プロチームが本拠地として使用していないのは、欧州五大リーグの国に限るとこのリュイス・コンパニス競技場と1948年のロンドンのウェンブリーと1972年のミュンヘンのオリンピック競技場だけである。もっともウェンブリーはイングランド代表の本拠地であり、ミュンヘンのオリンピック競技場もバイエルン・ミュンヘンは去ったものの様々なスポーツイベントで使用されている。

■ベルリンオリンピックをボイコットして開催予定だった人民オリンピック

 そしてバルセロナのモンジュイックの丘にあるこの競技場はスペイン、カタルーニャ地方の歴史を物語っている。1929年にモンジュイックの丘一帯で開催されるバルセロナ万国博覧会のため、1927年に完成した。万国博覧会が将来の日本の姿を大きく変えていく大阪の万国博覧会を控えた日本の読者の皆様は万国博覧会の影響を身をもって感じていらっしゃることであろう。バルセロナ万国博覧会のテーマは「産業、芸術、スポーツ」、このテーマがその後のバルセロナの歩みの礎となる。バルセロナは1936年の夏季オリンピックの開催地に立候補するが、ドイツのベルリンに敗れる。1936年に開催されたベルリンオリンピックはナチスドイツが主導し、第二共和制下のスペイン政府はボイコットして選手団を派遣せず、バルセロナで人民オリンピックを開催しようとする。ところが、スペイン内戦が開会式の数時間前に開幕直前に勃発し、開催は中止されたのである。

■モンジュイックで銃殺刑となったリュイス・コンパニス

 しかし、バルセロナのカタルーニャの血は生きていた。60年以上の時を経て、1992年には夏季オリンピックを開催し、そのメイン会場がこのリュイス・コンパニス競技場であった。なお、リュイス・コンパニス競技場と命名されたのは2001年のことであり、それまではモンジュイック競技場と呼ばれていた。リュイス・コンパニスとはカタルーニャの政治家であり、当時のフランシスコ・フランコ独裁政権から弾圧され、フランスに亡命したものの、ナチスによってとらえられ、1940年にモンジュイック城で銃殺刑となった。そのコンパニスは死後60年たって競技場の名前となり、2008年にはスペイン政府が名誉回復を認めた。
 第二次世界大戦時に多くの亡命者を受け入れたフランスではあるものの、ナチスによるビシー政権が多くのユダヤ人や反独裁主義者の命を奪ったことも黒い歴史として受け入れなくてはならない。

■リーグ戦の3敗はいずれもホームゲームのバルセロナ

 さて、本来のカンプノウを離れ、モンジュイックのリュイス・コンパニス競技場でプレーするバルセロナの今季の国内リーグの成績は21勝7分3敗の勝ち点70、首位のレアル・マドリッドを勝ち点8差で追う2位である。気になるのはリーグ戦での3敗がいずれもホームゲームであることであり、レアル・マドリッド、ジローナ、ビジャレアルに敗れている。仮の住まいであるリュイス・コンパニス競技場で取りこぼしが多く、パリサンジェルマンも十分にチャンスがあるのである。(続く)

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