第3592回 戦争中のフランスサッカー(1) 第二次世界大戦開戦で影響を受けたフランスリーグ
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■ドイツのポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦
今年は第二次世界大戦終結80周年、さらに現在、世界の各地で戦火が交えられ、これまでの周年になく、戦争への関心が高い。欧州に平和が訪れたのは1945年5月であるが、第二次世界大戦は1945年8月に日本の無条件降伏で終結した。8月を迎えるにあたり、戦時中のフランスサッカーについて振り返ってみよう。
第二次世界大戦は1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドを振興したことで始まった。このドイツのポーランド侵攻に対して9月3日にフランスは英国とともにドイツに対して宣戦を布告した。この日からフランスは20世紀最大の苦難の日々となる。また、ソ連もポーランドに侵攻し、ポーランドは瞬く間にドイツとソ連によって分割、占領されてしまう。
この苦難のポーランドからの難民がフランスにも多く押し寄せ、さらに戦後の復興時にフランスの炭鉱産業を支え、その炭鉱労働者ならびにその家族がフランスの戦後サッカーを支えたことは本連載でしばしば取り上げてきた。
■開戦から半年以上たってフランスに侵入したドイツ
ドイツにとっては、ポーランド侵攻が序盤の戦闘の中心であり、フランスや英国とは開戦当初は戦火を交えることはなく、第一次世界大戦では独仏の激戦地となったアルザス・ロレーヌ地方においても戦闘は行われず、まやかし戦争と言われた。その動きのなかった西部戦線が動いたのが、開戦後半年以上経過した1940年5月10日のことである。ドイツはオランダ、ベルギー、ルクセンブルクというベネルックス三国に侵攻を開始、フランス軍と英国軍はベルギー方面へ移動させたものの、ドイツ軍は防御の手薄な部分を進撃し、5月15日にはフランス国内に侵入する。5月28日にはベルギーが降伏、英仏軍は海峡を渡って英国に撤退することになった。
■パリ陥落、フィリップ・ペタン元帥のヴィシー政権
6月10日にはドイツと軍事同盟を締結していたイタリアが英仏に対して宣戦布告、西部戦線におけるドイツの優位性は決定的なものとなった。6月14日にドイツ軍はパリに無血入場する。
当時のポール・レイノー首相は戦闘継続を主張したが、4月に副首相に就任したフィリップ・ペタンを中心とする対独講和派に屈し、レイノー内閣は総辞職、ペタンが後継首相となった。ペタンは第一次世界大戦の英雄であり、第一次世界大戦後に元帥に昇格している。この時点ですでに84歳と高齢であったが、戦時下ということもあり国民的人気を誇っていた。HEC出身の政治家であるレイノーが敗色濃厚となった段階でも抗戦を訴えていたのに対し、生粋の軍人であるペタンは対独講和を主張するというのも不思議であったが、ペタンはレイノーの後継となるとすぐにコンピエーニュの森でドイツとの休戦協定を結ぶ。
この休戦協定によってパリを含む北部と東部のフランスはドイツの占領下となり、フランス政府はヴィシーに移り、下院に相当する国民議会で新憲法制定までの法律を成立させ、ペタンは強大な権限を得るフランス国主席となる。ペタンはナチスドイツに宥和的であったが、この戦争はフランスの運命を大きく変えることになり、サッカー界にも影響を与えたのである。
■23チームが3つのブロックに分かれてリーグ戦を実施
現在のリーグアンに相当するフランス1部リーグは1932-33シーズンに始まったが、8シーズン目で戦争の影響を受けた。1939-40シーズンは16チームで8月末に開幕するはずであったが、フランスがドイツに対して宣戦布告したため、多くの選手が徴兵されることになる。また、プロスポーツが否定されることになり、いくつかのチームが選手の徴兵だけではなくアマチュア選手の不足により、チーム編成に苦しんだ。さらにドイツ国境に近い北部や東部のチームは出場が不可能になった。そのためリーグ発足以来貫いてきた2部制を崩し、1部と2部の35チームのうち、出場可能な23チームを北部と南部に分け、さらに南部は東グループと西グループに分け、リーグ開幕を12月に遅らせてシーズンを開幕したのである。(続く)