第17回 ライー、パリで引退試合(1)

■カナリア軍団 パリに登場

 前回ワールドカップ準優勝のカナリア軍団ブラジル。11月7日にはボリビアのラパスでの戦いに敗れながらも、11月14日の最終戦でベネズエラを地方都市のサン・ルイスに迎えて3-0と勝ち星を挙げ、ようやく世界で30番目のチケットを手に入れた。
 サッカー王国の面目も失われてしまった感があるが、南米で行われた2つの試合の間にパリでカナリア軍団が輝いた試合があった。それが今回紹介するライー・ソウザ・ビエイラ・ド・オリベイラことライーの引退試合である。1965年生まれのライーはサンパウロFCの一員としてインターコンチネンタルカップでFCバルセロナ相手に2ゴールを上げ、最優秀選手にも選出されたことから日本のファンの皆さんにもなじみが深いことであろう。
 そのライーが現役を引退し、その引退試合が前回まで紹介した豪州-フランス戦の前日にあたる11月10日にパリのパルク・デ・プランスで行なわれた。

■輝かしいライーの功績

 ライーはサンパウロFCで活躍し、インターコンチネンタルカップを獲得した翌年の1993年にパリサンジェルマンに移籍し、5シーズン在籍したあと、1998年に古巣のサンパウロに戻り2シーズン活躍。昨年夏にけがを理由に引退を表明した。サンパウロではインターコンチネンタルカップのほかにリベルタドーレス杯を2回獲得、パリサンジェルマンでは移籍初年の1993-1994年のシーズンにリーグ制覇したほか、1996年にはフランスのチームとして初めての欧州三大カップ獲得となるカップウィナーズカップ獲得、1995年と1998年にはフランスカップとリーグカップの二冠に輝いている。代表チームのメンバーとしては1994年にはワールドカップで優勝し、強いブラジルの象徴であった。
 この引退試合は「1990年代のパリサンジェルマン」対「ブラジル・オールスター」という顔合わせで行われ、ライーは自らの引退試合の舞台を生まれ故郷ではなく、パリの地を選んだ。引退試合は当初ライーがサンパウロで今年初めに行われる予定だったが、昨年ライーがパリを訪れた際に、パルク・デ・プランスの雰囲気を忘れることができず、予定を変更したという経緯がある。ライーは8年間サンパウロに所属したが、5年間しか所属しなかったパリサンジェルマンの思い出のほうが印象深いというわけである。

■パリでの初年は苦悩の1年

 パリのファンは厳しい。味方であっても凡プレーには容赦なくブーイングが浴びせられる。ライーは1993年に鳴り物入りでパリサンジェルマン入りしたが、そのデビューの年は散々であった。ワールドカップ・米国大会の南米予選のためシーズン途中からの合流となったが、まったく精彩を欠きブーイングの嵐。優勝を決めたトゥールーズ戦も途中で交代を告げられ、優勝の瞬間にはグラウンド上にはいなかった。
 この移籍後のつまずきに起因するものであるのか、シーズン後に開催されたワールドカップ・米国大会では栄光の背番号10を背負い、主将を務めたが、大会途中でメンバー落ちする。歓喜のローズボウルではベンチにとどまり、ワールドカップを高々と持ち上げた腕にキャプテンマークをつけていたのはドゥンガであった。

■復調し、「パリのプリンス」へ

 しかしながら、この苦悩の1年をステップとして復調し、前述したようにライーは在籍中に多くのタイトルを獲得することになった。パリサンジェルマン自身、1994年のリーグ優勝は前年のフランスカップに続くものであるが、その前に獲得したタイトルはチーム創設以来3つ目のタイトルとなる1986年のリーグ制覇までさかのぼらなくてはならない。またライー退団後は残念ながらタイトルとは無縁である。つまり、パリサンジェルマンは30年の歴史の中で獲得した10タイトルのうち6タイトルをライー在籍中の5年間に獲得したわけである。「パリのプリンス」という称号を得たライーは全盛期のパリサンジェルマンの象徴と言えるであろう。
 ライーのパリサンジェルマンでの最後の試合は1998年5月2日のフランスカップ決勝のランス戦である。この決勝の舞台はワールドカップを控えたスタッド・ド・フランスであり、初めてのスタッド・ド・フランスでの決勝戦という栄誉ある試合でライーは1点目を上げて、勝利に貢献している。ちなみにスタッド・ド・フランスでクラブチームが最初に試合を行ったのは同年4月4日のリーグカップ決勝であり、この試合でもパリサンジェルマンがボルドーを下している。(続く)

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