第35回 マルティニック、ゴールドカップで大健闘(2) マルティニックの英雄、ジェラール・ジャンビオン

■深刻な人材のフランス本土への流出

 1993年のゴールドカップ初出場で優勝国とはいえメキシコに0-9と大敗したことはその後のマルティニックのサッカー界に大きな影響を与えた。マルティニックでもサッカーは盛んであるが、プロとして選手が生計を立てることはできず、優秀な人材がフランス本土に流出してしまう。海外県では経済成長は認められるものの、失業率が高く、資格を得る機会も少ない。したがって、多くの市民が有利な就職先を見つけるため、あるいは資格や技能を獲得するためフランス本土に移り住んでおり、海外県ではその2割が本土に移住していくと言われている。

■サンテエチエンヌの卓越したリクルートとDFへの転向

 サッカーの世界ではグアドループ出身と言うとリリアン・テュラムが有名であるが、マルティニック出身と言えばジェラール・ジャンビオンである。1953年8月21日にマルティニックの中心都市フォール・ド・フランスで生まれ、センターフォワードとして活躍する。海外県のチームもフランス本土で試合をする機会はあり、1972年に自転車レースで有名なルーベの大会でジャンビオンは得点王と最優秀選手に輝く。この活躍がマルセイユに移籍してしまったサリフ・ケイタの後釜を探していたサンテエチエンヌのスカウトの目にとまり、カリブのゴールゲッターはサンテエチエンヌと契約したのである。(サリフ・ケイタについては本連載の第28回参照)
 サンテエチエンヌは、ケイタやジャンビオンのように他国や海外県からの人材を積極的に獲得し、1960年代末から1970年代半ばにかけて黄金時代を築いたのである。
 ジャンビオンはサンテエチエンヌに加入し、DFにコンバートされる。1975年にはフランス代表に選出され、緑(所属クラブのサンテエチエンヌ)と青(代表チーム)のユニフォームで1970年代後半から1980年代前半まで活躍することになる。ジャンビオンはDFにコンバートされた後も守備だけではなく積極的に攻撃に参加し、FW出身らしい攻撃のセンスを見せ、サンテエチエンヌでは13ゴールをあげている。また、1970年代のサンテエチエンヌの黄金時代を支えるとともに、1978年ワールドカップ・アルゼンチン大会、1982年ワールドカップ・スペイン大会でも活躍している。

■衝撃的な2つの敗戦、1976年5月12日と1982年7月8日

 しかし、ジャンビオンが1970年代と1980年代のフランスサッカーにとって最も衝撃的な敗北を喫した試合に出場していたことにも触れないわけにはならない。
 まず、1970年代のフランスサッカーの最も衝撃的な敗戦は1976年5月12日にスコットランドのグラスゴーで行われた欧州チャンピオンズカップの決勝のバイエルン・ミュンヘン戦である。サンテエチエンヌは前年にも準決勝に進出しており、フランツ・ベッケンバウアー率いるバイエルンを倒し、フランス勢として初めての欧州三大カップの覇者となるのではないかと期待は高まった。しかし、残念なことにバイエルンに敗れ、サンテエチエンヌだけではなくフランス全体が大きな悲しみに暮れる。
 そして1980年代の最も衝撃的な敗戦は1982年7月8日にスペインのセビリアで行われたワールドカップ準決勝のドイツ戦である。サンテエチエンヌの僚友パトリック・バチストがドイツのGKハラルド・シューマッハーに倒され、フランスイレブンは憎悪心をあらわに戦ったが、結局PK戦で破れ、初めての決勝進出を逃すことになった試合である。ジャンビオンはこの二つの試合に出場しているが、ジャンビオン以外にこの両試合に出場していたのはドミニク・ロシュトーだけである。

■引退後、指導者の道へ

 ジャンビオンは2度目の衝撃的な敗戦の後、3位決定戦と8月に行われた親善試合のポーランド戦に出場し、代表から離れる。また、1970年代に栄光に輝いたサンテエチエンヌも1980年代に入ると有力選手が続々と流出し、1983年にジャンビオンもパリサンジェルマンに移籍する。その後、ジャンビオンは最後の選手生活をベジエで過ごす。
 ジャンビオンは現役引退後は指導者の道を歩む。最初にサンテエチエンヌの近郊で指導者となり、その後レユニオンのサント・スザンヌで監督を務める。そして、故郷のマルティニックに戻り、サンピエールのクラブの監督となる。もちろん、このマルティニックの生んだ英雄がクラブの監督でとどまっているわけにはいかない。ジャンビオンはマルティニック代表のコーチとなり、監督のサン・ユベール・レイン・アドレイドを助けることになったのである。(続く)

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