第184回 古豪エジプトと初対戦 (1) ナポレオンのエジプト遠征

■親善試合ではアルジェリア戦以来の初顔合わせ

 2月のチェコ戦では完敗し、行く末を危ぶむ声が高まったフランス代表であるが、3月末のマルタ戦では大勝、4月初めのイスラエル戦では逆転勝ちと欧州選手権予選では5連勝。ポルトガル行きが見えてきたが、次の欧州選手権予選は9月のキプロス戦。それまでは親善試合とコンフェデレーションズカップだけが予定され、4月30日にはスタッド・ド・フランスにエジプトを迎えて親善試合を行う。
 エジプトはアフリカの古豪、1934年のワールドカップ・イタリア大会に出場し、1957年の第1回のアフリカ選手権に優勝した国である。またアフリカのサッカーの総本山であるアフリカサッカー連盟もカイロにあり、いわばアフリカサッカーのメッカである。しかしながら、意外なことに今までフランスはエジプトとの対戦がなく、今回が初顔合わせとなる。フランスにとって初顔合わせは昨年のワールドカップで対戦したセネガル戦以来であるが、抽選によって対戦相手が決定するタイトルマッチではなく、両国協会の合意の上で対戦が決定する親善試合で初対戦となるのは2001年10月6日のアルジェリア戦以来のことである。アルジェリア戦については本連載第5回から第12回で紹介したが、エジプトもアルジェリア同様、フランスとは長い歴史、そして苦い歴史のある国である。

■5000年の歴史を誇るエジプト文明

 エジプトは古代文明の栄えた国であり、紀元前3000年代にその歴史はさかのぼることができる。エジプトの古代史についてはここで改めて書く必要はないだろうが、その歴史にはいくつかのターニングポイントがある。
 紀元前3000年代以降、様々な王朝が存在したが、この時代にピリオドを打ったのが、紀元前332年のマケドニアのアレキサンダー大王によるエジプト支配であった。すでに3000年の歴史を持っていたエジプトが初めてエジプト人以外の異民族に支配されたのである。プトレマイオス王朝となり、アレクサンドリアに首都が移動する。そして紀元前30年にはローマ帝国の支配下に入り、紀元後395年にはローマ帝国の分裂により、東ローマ帝国の支配下に移る。エジプト人の手を離れ、支配者がローマ人になってもアレクサンドリアは文化・教育などの水準は高く、栄華を誇っていた。ところが、641年のイスラム人による占拠以降、文化の中心地としての衰退が始まった。イスラム人の支配は長く続くことになるが、そのイスラム支配に最初に一撃を与えたのがナポレオンであった。

■ナポレオンのエジプト遠征の背景

 ナポレオンのエジプト遠征の背景には英国の存在があることを忘れてはならない。フランス革命後、ナポレオンの出現により欧州大陸内で勢力を拡大したフランスは打倒英国を目指す。ところが、1798年初めにナポレオンはドーバー海峡沿岸の英国海軍を視察し、英国はフランスがまともに戦って勝てる相手ではないことを認識する。そして英国上陸をあきらめたナポレオンは東方に勢力を伸ばし、当時の綿花の原産地であるインドと繊維産業で栄華を極めていた英国を分断するためにエジプトに遠征したのである。エジプトを支配することこそ、フランスが欧州において覇権を握ることだとナポレオンは信じ込み、5万4000人の大部隊を率いてエジプトに乗り込んだのである。「兵士諸君、ピラミッドの上から4000年の歴史が諸君の戦いを見ているぞ」という檄はナポレオンの代表的な名言であろう。7月1日にはアレクサンドリアを奪還、そして7月23日にはカイロに入城、まさに破竹の勢いであった。
 しかし、そこにストップをかけたのがネルソン提督率いる英国海軍。ナイルの戦いと言われる8月1日のわずか1日の戦いで英国海軍はフランス海軍を全滅させ、カイロにとどまっていたナポレオンは呆然とし、失意の帰国をするのである。

■エジプト遠征の産物、エジプト学と英仏の覇権争い

 ナポレオンのエジプト遠征は軍事上は失敗に終わった。しかし、忘れてはならないのはナポレオンがこのエジプト遠征に際し、200人の学者、芸術家を同行させたことである。数学者、天文学者から始まり、詩人、ピアニストなどあらゆる学問、芸術の専門家がエジプトを研究し、後に紹介することになったのである。彼らが、いわゆる「エジプト学」を誕生させ、古代のエジプトの文化・芸術が世界に知られることになった。フランスの力によって古代の文化・歴史が現在知られているように広まったのである。
 そしてナポレオンの遠征を機会にエジプトは英仏の戦いの場になってきたのである。(続く)

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