第187回 古豪エジプトと初対戦 (4) ナセルの出現とアフリカ選手権連覇

■ナセルによる2300年ぶりのエジプト人政権

 エジプト王国と名乗っていたものの、スエズ運河周辺には依然として英国軍が駐留していた。そして12万人の命と引き換えに完成したスエズ運河の通行料は出資者の英国とフランスに入り、経済的には苦しかったエジプトに、救世主が現れたのは、第二次世界大戦、そして第一次中東戦争の終わった1952年のことであった。
 第二次世界大戦が欧州で終わるとともに、エジプトは周辺諸国とともにアラブ連盟を結成し、アラブの統一行動を目指した。そこに1948年、パレスチナ地区のユダヤ人がイスラエルの建国を宣言する。これを不服に思ったアラブ諸国はイスラエルに攻め込むが、米国などの支援を受けたイスラエルの最新兵器の前に撤退を余儀なくされる。翌年に戦火は収まったが、これが第一次中東戦争である。このイスラエルでの戦いに苦い思いをした青年将校の1人がナセル中佐である。ナセルは「自由将校団」を結成し、1952年7月23日にクーデターを起こし、1953年には王制を廃し、共和制が発足し、ナセル自身が大統領となる。英国による間接支配から脱却し、実に2300年ぶりにエジプト人による国家を樹立したのである。そしてこのナセルが大きなダメージを与えたのは英国だけではなかった。

■英仏に打撃を与えたスエズ運河国有化とスエズ動乱

 ナセルは1955年にインドネシアで開催されたバンドン会議で自らを「米ソに続く第三陣営」と呼び、宿敵イスラエルを支援する米国と一線を画し、社会主義国に接近し、米国と敵対するソ連から武器を買い付けた。ナセルが推進していたアスワン・ハイダムの資金援助をしていた米国は激怒し、エジプトへの経済援助を打ち切ったのである。そしてナセルは資金確保のために1956年にスエズ運河の国有化を宣言する。
 これに対して猛反発したのがスエズ運河の通行料で利益を上げていた英国とフランス、そして隣国のイスラエルである。英国、フランス、イスラエルは軍事行動を起こし、これがスエズ動乱と言われる第二次中東戦争である。英国とフランスはカイロを爆撃するが、国際世論から厳しい批判を浴びる。東側陣営のソ連はもちろん、ソ連の参戦を恐れた米国も英仏両国に撤兵を進めたため、英仏両国はやむなく撤兵、全世界に大きな恥をさらすことになり、中東エリアにおけるプレゼンスを失ったのである。
 この結果、エジプトはアラブ民族主義のリーダーとなり、ナセルの勝利はその後のアフリカにおける独立運動につながっていったのである。エジプトをはじめとするアフリカ諸国のナショナリズムの高揚はサッカーの世界でも現れたのである。

■1957年にスタートしたアフリカ選手権で連覇

 アフリカ大陸における国別選手権がアフリカ選手権が最初に開催されたのは1957年のことであり、その歴史は欧州選手権よりも古い。第1回大会はスーダンで行われ、エジプト、エチオピア、スーダン、南アフリカがエントリーする。準決勝で地元スーダンを倒し、決勝ではエチオピアを4-0と一蹴し、輝かしい初代王者となったのである。第2回大会は1959年にエジプトで行われる。エジプト、エチオピア、スーダンの3か国が参加し、総当りのリーグ戦方式で行われ、連勝したエジプトが連覇を果たしたのである。1962年の第3回大会では決勝で延長戦の末、地元エチオピアに敗れ準優勝、1963年大会は初めて決勝に残れず、3位にとどまる。1965年にチュニジアで開催された第5回大会は出場できず、それ以後、長く決勝進出から見放されることになったのである。第三次中東戦争でイスラエルに奇襲攻撃をかけた翌年の1974年には2度目のホスト国となるが、準決勝でこの年のワールドカップに出場したザイールに敗れて3位、実にエジプトが再びファイナリストとなるのは1986年のことであった。
 エジプトのサッカーが1950年代に勢いがあったのは、ナセルというカリスマ指導者の革命の余韻が残っていたからであろう。昨年のワールドカップで日本が躍進したのも、小泉純一郎首相が推進した聖域なき構造改革に国民が一丸となって取り組んだ現れであろう。創生期のアフリカ選手権における活躍は近隣諸国と緊張の続くエジプト国民に希望を与えたのである。(続く)

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