第255回 宿敵ドイツと対戦(1) フランスを疲弊させた普仏戦争

■地続きのライバル国、ドイツ

 フランスにとって最大のライバル国はどこか、という質問の回答は様々である。ドーバー海峡をはさんだ英国と答える人もいれば、本連載の読者の方々であれば今まで回も対戦している隣国のベルギーと回答されるであろう。そして、今年に限って言えばイラク問題に対する態度で対立した米国こそ最大のライバルであると答える方も少なくないであろう。しかし、隣国ドイツこそライバルである、という意見が最も多いだろう。そしてそのドイツと11月15日に対戦する。

■宗教改革に端を発する17世紀の30年戦争

 ドイツとフランスという地続きの両国は20世紀には第一次、第二次の両世界大戦で多くの犠牲者を出したが、それをさらにさかのぼる古来より争いを繰り返してきた。古くは16世紀後半から17世紀のかけての宗教改革をきっかけとする新旧両教派の対立に端を発する30年戦争が1618年から1648年まで続いた。もともとこの30年戦争はドイツ国内の新旧両教派の内戦に反ハプスブルグのフランスが介入したことにより、戦争が拡大したものである。しかしフランスはこの30年の戦いの代償としてアルザス・ロレーヌ地方を手に入れ、この地域がその後も両国の激しい戦いの主戦場となる。30年戦争後フランスに併合されたアルザス・ロレーヌ地区はドイツ文化でフランス領という状態が続いたが、それを崩したのが1789年のフランス革命であった。フランス革命後、急速にこのエリアはフランス化する。フランス革命、ナポレオンの出現によるフランスの中央集権化によってアルザス・ロレーヌ地方はフランスに同化したのである。

■ビスマルクとナポレオン3世の対立から始まった普仏戦争

 ところが、19世紀後半になり、両国間の感情を悪くさせる争いがおこった。発端はナポレオン3世がドイツ統一を妨害しようとしたことにある。北ドイツ連邦を基盤とするプロイセンの首相ビスマルクは南ドイツ諸国を統合しようとしていたが、これを妨害したのがナポレオン1世のおいであるナポレオン3世である。ビスマルクはこれに強く反発し、フランスはプロイセンに1870年7月19日に宣戦布告した。これが普仏戦争である。フランスの宣戦布告を受けたビスマルクは北ドイツだけではなく南ドイツの兵力も動員し、軍備の未整備なフランス軍を撃破した。立ち上がりに猛攻を受けたフランスのナポレオン3世は最高司令官を辞し、フランス軍はメッスとスダンに分断される。9月1日にはスダンにいたナポレオン3世はドイツ軍の捕虜となり、メッスのフランス軍も10月下旬に降伏している。

■パリ・コミューンの成立とその崩壊

 このようなフランス東部での戦いをよそにフランスの首都パリでは異変が起こった。9月4日にパリで暴動が起こり、帝政が廃止される。本連載第236回で紹介した世界陸上選手権のマラソンコースになり、多くの日本人がつめかけた9月4日通りはこの帝政廃止にその名が由来する。そして、フランスにとって悲劇となるのはこの臨時政府がプロイセンに対する徹底抗戦の意思を表明したことである。フランス東部でナポレオン3世軍を撃破したドイツ軍はパリに乗り込み、1871年1月にパリをいとも簡単に陥落する。敗戦国となったフランスの新政府は2月ドイツと平和条約を結んだが、パリ市民の不屈の魂とドイツに対する敵対心は収まることはなかった。新政府による武装解除命令を拒否したパリ市民は3月に再び反乱を起こし、3月28日に自治政府であるパリ・コミューンを樹立したのである。労働者・小市民が中心としてつくった自治政府のパリ・コミューンは世界最初の社会主義政権と言われている。ドイツ軍はパリ・コミューンを倒すためにベルサイユに本拠を置くフランスの政府軍の協力を取り付け、5月21日にパリ総攻撃を仕掛けたのである。この戦いは「血の1週間」と言われ、5月28日にパリ・コミューンは崩壊し、世界初の社会主義政権はわずか2月の命で終わったのである。
 この結果、フランスはアルザス・ロレーヌをドイツに譲り、フランスの政治は不安定となり、経済は疲弊し、ナポレオン以来保ってきた地位は低下する。一方、ドイツはフランスに勝って統一を達成する。19世紀終盤にフランスはドイツに大きく遅れをとり、ドイツにコンプレックスを持つことになったのである。(続く)

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