第256回 宿敵ドイツと対戦(2) 激戦が続いた第一次世界大戦

■世界に目を向け、スポーツ振興の契機となった普仏戦争の敗北

 1870年から1871年にかけて行われた普仏戦争はフランスの政治経済を疲弊させた。その結果、フランスは欧州での地位を低下させることになったが、これを契機にフランスでは「構造改革」が進み、ロシアやアジアなどの欧州以外の諸地域に進出するようになった。また、敗戦で失った国民が自信を取り戻すようにスポーツを奨励し、1870年代にサッカー、ラグビーをイングランドから輸入し、振興したのである。
 本連載の読者の皆様ならばFIFAの創立が1904年であり、そのメンバーに加わった唯一の欧州の列強がフランスであったことは何度か紹介しているのでご存知であろう。もし、普仏戦争でフランスが勝つかダメージを受けていなかったならば、逆にフランスは欧州以外には見向きもせず、イングランドなどの英国四協会が孤高の独立を保ったように世界の桧舞台に登場しなかったであろう。
 フランスの政治経済に光が差したのがベルエポックと言われる19世紀末のことである。この時期になってようやくフランスは活気を取り戻し、投資先もロシアやアジアではなく国内の新興産業へとシフトしてきた。そして1904年にパリにFIFAが設置され、フランスはサッカーの世界で主導権をとろうとしていた矢先に再び、フランスを暗雲が襲った。

■セルビアでの暗殺事件が世界規模の大戦に

 それが1914年に始まった第一次世界大戦である。セルビアを訪問中のオーストリア皇太子暗殺事件により、まずオーストリアがセルビアに宣戦布告する。これを機に勢力を広げたいドイツはその4日後の8月1日にロシアに対して宣戦布告。翌2日にベルギーに領土通過を申し入れ、ベルギーがこれを拒否すると3日にフランスに宣戦布告し、仏独の20世紀最初の争いが始まった。当初短期決戦を予想していたドイツの目論みははずれ、長期戦となった。ドイツ側の同盟国はわずか4か国、一方連合国軍はイギリス・フランス・ロシアを中心に米国・日本なども参戦し、27か国となった。

■歴史的な激戦となったベルダンの戦い

 特にドイツとフランスの西部戦線はこう着状態となり、長期戦を恐れたドイツは1916年2月から12月にかけ、フランス東部のベルダン要塞を集中的に攻撃する。一方のフランス軍もペタン将軍の指揮下で戦力を結集して応戦する。普仏戦争での敗戦後、スポーツを通じて心身ともに鍛えられたフランス軍は勇敢であった。1年近い戦いはドイツ軍34万人、フランス軍36万人の死傷者を出し、第一次世界大戦における最大の激戦地となったのである。フランスのいたる都市に存在する「ベルダン広場」と言うのはこの激戦地での犠牲者をしのんで名づけられたものである。
 ベルダンの戦いを乗り切ったフランスは北フランスのソンムで大規模な反撃に転じ、ここでも激しい戦いが行われる。しかし長期戦は植民地との補給路を断たれたドイツにとって不利に作用し、次第に戦局は連合国軍側に傾いていく。さらに1917年の米国の参戦とロシア革命はこの第一次世界大戦の拡大とロシアとの東部戦線の早期終結を促した。西部戦線のみが主戦場となった1918年、フランスは戦火につつまれたが、連合国軍としてフランスを助けたのが米国である。参戦したばかりの米国の戦力は強力であり、ついに1918年11月11日、4年間にわたる戦争が終結したのである。世界大戦とは言うものの、戦場はドイツならびにその東西であり、フランスにとっては国土が戦火につつまれ、ドイツが唯一の敵国であった。

■多くの人命を失い興廃した国土、ドイツに対する緊張感

 ほぼ半世紀前の普仏戦争とは全くスケールの違う戦いとなり、今度はフランスの所属する連合国軍がドイツに勝ち、普仏戦争で失ったアルザス・ロレーヌ地域を取り戻した。しかし、多くの人命を失い、フランス国民の中に敵国ドイツに対する感情を抱かせてしまったのである。そして、戦火で興廃した欧州は世界政治の中でその相対的な地位を落とし、新大陸の米国が世界の政治の中心となっていく。この結果、フランスは同じ欧州の国をライバル視するようになり、フランスとドイツの緊張感がもたらすライバル関係は今日まで続くことになるのである。11月11日は第一次世界大戦が終結したのを記念した世界平和記念日である。平和な時代にスポーツに打ち込めることに感謝しなくてはならない。(続く)

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