第403回 マルセイユ、秋の変 (3) 追悼、レイモン・ゴエタル

■大物監督も短命に終わるマルセイユ

 1996年にロベール・ルイ・ドレフェスがオーナーとなってから、会長と監督がめまぐるしく代わったマルセイユ。今回就任したフィリップ・トルシエは実に15人目の監督である。8年間で15人の監督と言うことは平均すれば監督の平均在任期間は約半年、マルセイユの混迷振りがよくわかる。さて、フランスを代表するビッグクラブのマルセイユであり、数々の大物選手を獲得してきたが、それに比べると今回のフィリップ・トルシエが象徴するように招聘してくる監督が小ぶりであることは否めない。ルイ・ドレフェス体制化における15人の監督を列挙してみても国際的に有名な監督はザビエル・クレメンテ、トミスラフ・イビッチくらいであろう。しかし、スペイン代表監督も務めたクレメンテは5か月、ポルトを率い、インターコンチネンタルカップで優勝したこともあるイビッチは4か月で監督の座を追われ、短命であった。1シーズンを完全に務めた監督は1997-98シーズンのローラン・クルビスと2002-03シーズンのアラン・ペランの2回しかない。また、かつてフランツ・ベッケンバウアーを招聘したが、ワールドカップ優勝監督にはふさわしくない成績しか残せなかった。ビッグクラブであるマルセイユはどうも監督に恵まれていないようである。

■レイモン・ゴエタル、83年の人生に別れを告げる

 もちろん100年を越える歴史を有するマルセイユに名監督がいなかったわけではない。その最後の名監督は1990年から1993年まで指揮を執ったレイモン・ゴエタル(オランダ語読みではゲタルス)であろう。しかしながら1921年生まれのゴエタルはマルセイユが成績不振により、経営陣、首脳陣が混迷している中で12月6日に83歳の長い人生に別れを告げたのである。

■ベルギーのクラブ、代表チーム、国外のクラブを経てマルセイユへ

 ブリュッセル生まれのゴエタル(オランダ語読みではゲタルス)はフランス語とオランダ語を操り、現役引退後、国内外で指導者になるための修行を重ね、30代半ばからベルギーのクラブチームの監督を歴任し、1968年にベルギー代表監督となる。1976年までの代表監督を務め、1972年の欧州選手権で3位、1970年のワールドカップ出場、1976年の欧州選手権ベスト8と「赤い悪魔」を率いた。1970年代後半には国内最大のクラブであるアンデルレヒトの監督になり、カップウィナーズカップで優勝する。ここから国外のクラブでも指揮を執るようになり、1979年のボルドーを振り出しにブラジルのサンパウロ、ポルトガルのギマラエスの監督を務める。1989年には再びボルドーの監督に就任、マルセイユと二強時代を築いた。

■人生最良の日、チャンピオンズリーグ優勝

 そして、1991年にはライバルのマルセイユに移籍する。スター選手の集まるビッグクラブでその采配はさえわたる。3年にわたり監督を務めたが、国内リーグでは3連覇、3年連続して出場したチャンピオンズカップ(チャンピオンズリーグ)欧州の舞台では1991年にチャンピオンズカップ準優勝、1992年は2回戦で敗退したものの、1993年はミュンヘンの決勝でACミランを破り、ビッグイヤーといわれるトロフィーを初めてフランスの地に持ち帰った。このチャンピオンズリーグ優勝の日は72年間の人生で最良の日と本人は語っている。このタイトルは八百長疑惑により剥奪されてしまったが、もちろんゴエタルに何の責任もない。そしてこのシーズンを最後に実質的にピッチから去り、監督時代に「科学者ゴエタル」「魔術師」と言われた経験と独特のブリュッセル訛りで解説者として活躍をした。
 しかし、83歳と言う高齢には勝てず、「科学」も「魔術」も人生の最後の場面では機能せず、故国ベルギーでその人生の幕を下ろしたのである。ゴエタルの死去に際し、フランス国内からもマルセイユやボルドーの関係者を中心に多くのメッセージが寄せられた。ゴエタルにとっては孫のような世代のスーパースターたちはゴエタルの死去を悲しみ、当時の会長ベルナール・タピはゴエタルの人格を高く評価している。
 ゴエタルの去った後、マルセイユは国内外のタイトルから見放されており、ゴエタルの存在の大きさを再認識する次第である。トルシエ率いるマルセイユは天国の魔術師にタイトルを捧げることができるのであろうか。マルセイユを栄光に導いた名将の冥福をお祈りしたい。(この項、終わり)

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